■劇評■ (〜2003)

 

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『書を捨てよ、町へ出よう〜花札伝綺2003』    「悲劇喜劇」2003年10月号  中村哮夫

 まず、本多劇場に行く前から、町の中を方々から観客を集めて、それを異形の男女が誘導していくという仕掛け。劇場の階段のところでは、入れ墨のメイクをしている入れ墨ショーのような場面を見せたり、それからロビーに入ると、サーカス団が怪しげな雰囲気で観客を挑発している。さらに、客席内に入ると、今度は白黒の葬式用の幕が張りめぐらされている。というここまでの導入は非常に面白かった。寺山らしいというか、アングラらしい、そして流山児らしい、なんかわくわくするような危ない空気が漂っていて、開演前の雰囲気は満点だった。〔中略〕

 話は、「三文オペラ」を一つ土台にしたような、あれは乞食の集団ですよね。それを葬儀屋にして、その葬儀屋の娘と、今度は「三文オペラ」ならメッキースに当たる盗賊鬼太郎というのを伊藤弘子が男役で非常に魅力的にやっていましたが、その「三文オペラ」的な部分と、それから幕開きからあるんだけど、「怪盗ルパン」が世を騒がせて回るという部分と、そのほかのいろんな寺山世界をコラージュのようにまぜ合わせている。

 その中で、「花札伝椅」というのは日本の一つの伝統的な美学である花札をパネルにして、それをぐるぐる回したりして、寺山作品らしい雰囲気を持っているところはたくさんある。

 その葬儀屋というのは、実はもう本当は死んだ者たちであって、その死者の娘である女が鬼太郎という生者に恋をする。これは人間に恋してしまう妖精であるオンディーヌとか、古今東西そういうパターンはあるんだけど、全然住む世界が違う、恋してはいけない人に恋するという、そういう古典的なパターンをうまく流用していると思います。

 それからあんまですね、盲人、つまり差別される異形の存在みたいなもの、また今の花札にあるような賭博というものの魔力、要するに寺山の好きそうなものをやたら取り込んで、散りばめたという寺山世界のコラージュがうまくいっていたところと、あまりそれが魅力的に立ち卜がらなかった、機能しなかった部分とが玉石混淆というような感じの舞台だったと思います。〔後略〕

 台詞で、泥棒の神様に向かって「私は形のないものを盗みたいんだ」という。形のないということは、ある思いだとか、人の心だとか、あるいは時間だとか、そういう物でない、形のないものを盗みたいという、これは一種寺山の本音のようなものが思わず出た、なかなかいい台詞だなと思いました。     

 ラストに寺山自身の音声で寺山の短歌を朗読して、それが締めくくりのようになっている。久しぶりで僕は寺山に会ったような感慨を覚えました。鬼太郎という盗賊と、オハカという葬儀屋のおかみさんの二人が背中の彫り物を比べるように並ぶところなんていうのは、濃厚で、セクシャルないいシーンだったし、それから女白浪でオギンをやった有希九美という女優、この人の歌が大変魅力的だったり、それからこれは集団疾走劇だという流山児流のエネルギーで、大勢が舞台のみならず、客席の通路も走って走って走り回るその疾走の痛快さ。二時間の悪夢のような、一方、お祭りのような、そういうアングラ気分を満喫させた。

 

『書を捨てよ、町へ出よう〜花札伝綺2003』  「悲劇喜劇」2003年10月号  高橋豊

 「花札伝綺」は六八年に寺山修司のいわゆる見せ物芝居で、天井桟敷の初期のころの作品です。八三年に寺山は亡くなりますけれども、晩年になってくると、かなり大がかりな、しかも形而上学的な、前衛的な作品になってきますが、初期の作品は捨て難い魅力があって、その一つが「花札伝綺」と思います。 中村さんがおっしゃったように、これは完全にブレヒトの「三文オペラ」を下敷きにしていまして、団十郎という葬儀屋の娘を、これは墓場の鬼太郎率いる泥棒団がかっさらってしまう。

 

流山児★事務所の作品は2年前に花園神社でテント公演で初演しまして観世榮夫や大久保鷹が出てきたりという大変不思議な芝居でしたけれども、今回は、本多劇場という劇場空間に人れたことで、コンパクトなまとまりをもって、劇空間が明快になりました。さらに 「三文オペラ」を意識してクルト・ワイルの曲に乗せて台詞を歌わせるという流山児★事務所版の三文オペラをつくろうとしていました。

今回つくづく思ったのは、団十郎という葬儀屋をやった若杉宏二が、一本立ちできるような役者になったことが第一点。鬼太郎をやった伊藤弘子も華がありました。地獄を演じた倉持健吾ら、個性的な役者が見られました。先ほど中村さんがおっしゃった歌のうまい女優など含めて。

 流山児はこの作品をさらに縮めて、二時間を割るような作品にして、カナダに持っていこうと思っているようですけれど、どんなふうな反応が返ってくるか、楽しみです。

 


『青ひげ公の城』 月刊「テラヤマ新聞」 扇田昭彦 

寺山修司没後二十年目の今年は、寺山関連の公演が多いが、中でも流山児★事務所とパルコ劇場による『青ひげ公の城』の共演が刺激的だ。この作品はパルコ劇場での初演(1979年)以後にも何度も上演されているが、特に印象深いのは1989年に流山児★事務所が佐藤信演出で再演した舞台である。佐藤信らしい醒めた批評精神と鋭い美意識が際立つ舞台だった。引用文は多く、メタシアター性の強い演出に適してもいた。それに比べると、この舞台はいかにも流山児らしく、ノイズを伴う混沌とした活力にあふれていた。流山児が手がけると、複雑なメタシアターも劇場の迷宮的な闇の魅力を増幅し、人間=俳優の多重性を強める方向に結びつくのだ。それは宇崎竜童の扇情的な音楽のせいでもある。

少女役の池田有希子(歌がうまい)をミーハー的女性にしたのも面白かつた。観世栄夫、平栗あつみ、篠井英介など多彩な配役の中でも私は李麗仙の「第五の妻」役に感慨を覚えた。かつては状況劇場のヒロインの李がライバル関係にある寺山の作品に出演することなど、考えることもできなかった。二十年の歳月の変化はやはり大きい。

『青ひげ公の城』 月刊ミュージカル2003 4月号 小藤田千栄子

寺山修司の代表作だが、今回はさらにミュージカル味を加えての上演である。『青ひげ公の城』という芝居が演じられようとしている劇場に、新人女優(池田有希子)が訪ねてくるのが始まり。彼女は青ひげ7番目の妻を演じることになっているのだがなかなか本筋通りには行き着かない。こういうところが実に寺山修司的。
青ひげの妻たち(松本紀保、篠井英介、山崎美貴、伊藤弘子、李麗仙、木内尚など)が次々と登場して個性を発揮し、ついで7番目の妻は、衣装係(平栗あつみ)に案内され、かつ
てこの劇団にいた実兄の秘密などを知らされていく。基本はいかにも実験的な寺山演劇であり、私もかつて見たことがあるが、今回は音楽を加えることによって、より豊かな広がりを持つようになった。それと、いま上り坂の池田有希子の歌唱が良くて、よりミュージカル味を加えていた。

『青ひげ公の城』 月刊ミュージカル 2003 5月号 瀬川昌久

寺山修司が1979年魔術音楽劇として作・演出し、西武劇場で上演した『青ひげ公の城』は数ある寺山作品の中でも特異な幻想劇で、寺山没後1989年に流山児祥プロデュース、佐藤信演出で再演(本多劇場)した際、高い評価を受けた。95年に生田萬演出で再々演されたが、今回は寺山の弟子流山児祥が、師の没20周年記念企画の第一弾として、自ら演出を担当し、脚色を山崎哲、音楽を宇崎竜童、美術を朝倉摂など一流スタッフを揃え、50人近くの出演者を擁する壮大な舞台となった。『青ひげ公の城』という芝居の七番目の妻を演ずるために、一人の少女(池田有希子)が劇場に現れるところから劇は始まる。次々と殺される青ひげの妻たちや男優、舞台監督や裏方が登場し、遂には表版と二つの同名芝居が錯綜して、幻想と現実が詩とエロスに彩られながらすすんでいく。とにかくキャストがすごい。青ひげの妻だけでも松本紀保、篠井英介、山崎美貴、伊藤弘子、李麗仙、木内尚と名花がずらり並んで、夫々がポエティックな、或いはエロティックな雰囲気をかもし出す。ブタカン役の塩野谷正幸始め、観世栄夫や悪源太義平などの大物を含む男優陣も皆奇怪な存在感がある。宇崎の音楽も寺山の詩にふさわしいファンタジックなふくらみを与え、池田有希子やコーラス6人娘の歌唱をひき立たせた。今の若いミュージカル観客層に寺山作品に親しんでもらう絶好の企画で、70余人の役者・スタッフによる一ケ月半にも及ぶ稽古を実現し得たのもミュージカル月間なればこその成果だった。


『盟三五大切』 日刊スポーツ 梶繁男 2002.12.10

鶴屋南北の歌舞伎を「現在(いま)の演劇」として再構築し徹底して悪の美学を描いた舞台。着物は着ているものの髪は現代風どころかヒロインの小万は赤いマニュキュアまでしているし、酒盛りのシーンには缶ビールまで登場。立ち回りでは歌謡曲が流れるが、それらが気にならず、逆に劇的な効果を高めるから不思議。残酷な悪の奥に人間の本質が透けて見えた。

『盟三五大切』 朝日新聞 今村修 2002.12.27

悪を前面に押し出して大暴れしたのが流山児★事務所の『盟三五大切』。赤穂浪士の
一人、不破数右衛門を主人公に金と色の因果が渦巻く世界を描いた鶴屋南北の歌舞伎
を極彩色の音楽劇に仕立て、すばらしい悪の華を舞台に咲かせた。

『盟三五大切』 シアターガイド 2003.3

今まで見た『盟三五大切』の中で一番面白い。エネルギーが劇場にあふれ渦巻いている。この世を突き動かしているのは色と欲と言わんばかりのピントを絞り込んだ演出が役者の演技と一体となって、観る者を南北の世界に引きずり込んでいた。引きずり込まれる方もそれを楽しんでいた。

『盟三五大切』 テアトロ 渡辺保 2003年2月号

流山児演出の鶴屋南北『盟三五大切』は現代語であるのがいい。その結果、この複雑なドラマの構造が、今まで上演されたどの舞台(歌舞伎も含めて)よりも明快になった。スピーディな展開が、誰にでもわかりやすく、しかも衝撃力を強めて爽快である。見ていて私は南北が意外にも近代的なバランス感覚をもっていたこと、そして百両の金の変転を合理的に措いてきわどい綱渡りを演じて、ほとんどナルシスティックな会心の笑みをうかべているような気がした。 あのスピード感と戯曲の明快さは、多くの『盟三五大切』が学ぶべきであろう。青木砂織の八右衛門がこれまでの誰よりもいい。女優でこの役をやると、意外にもこの男の忠義がいかに無反省かつ盲目的なものかが明確になった。

『盟三五大切』 テアトロ 斎藤偕子 2003年2月号

 流山児祥演出の南北作『盟三五大切』は再演だが、小万(中村音子)を挟んで三五郎の山本亨と源五兵衛の若杉宏二が好演している。とにかく南北の描く世界、大量の残忍な血を流した忠臣蔵にまつわる人間模様の虚しさの最たる想いを、ずしんと残した舞台だった。

『盟三五大切』 まなぶ 瀬戸宏 2003年2月号 討ち入りという大義のために人を騙し、殺し合う『盟三五大切』

歌舞伎では凄惨な殺し場が一つの見せ場なのだが、流山児演出では扇情的な場面は抑えられ、劇中の人間関係を浮かび上がらせることに重点が置かれる。それは、「討ち入り」という大義と個人の情の間でもがく人間の姿である。大義のためには、人を騙し、殺しても許されるのか。大義の実現の裏には、いかに多くの犠牲があるのか。
歌舞伎、現代演劇の双方で『盟三五大切』を観てきたが、今回ほど劇構造がよく理解できたことはなかった。        


『人形の家』 河北新報社朝刊 2002年9月12日(木) 相原研也

 ダイナミックでスタイリッシュ。夢と現実が入り乱れたような不可思議な魅力にあふれた実験劇。興奮に満ちた余韻の向こうに、管理社会を冷徹に見つめながら、人間個人の自由意志を強く求める、静かで鋭く、確かな眼光を見た思いだ。
 寺山修司の人形劇台本で「狂人教育」が原作。男女六人ずつが登場、男が黒子を装い、女が人形となって、人形の一家が描かれている。「家族のうちに一人狂人がいる」と医者に告げられ、自分が狂人と見なされることを恐れ、それぞれが自分の特徴を隠し、画一化された行動を取り始める。
 人形は人格を持つが、黒子のさじ加減でいかようにも操作される。一見自由に振る舞っている人形の姿が、管理社会で生きる人間の姿と重なる。狭い枠内で憎しみ、裏切り、共謀し合い、人間の醜い性が浮かび上がる。
 能や歌舞伎の所作に加え、モダンダンスやジャズなど和洋折衷の要素が多彩に盛り込まれる。それら一見不調和な演劇的要素が、鍛えられた役者の身体を通して見事に変容、怪しげな融和の形をなした。
 構成、演出は流山児祥。「アングラ第二世代」の流山児の才気を前面に感じさせた。安保闘争で日本が大きく揺れていた1962年、寺山が劇に託した時代の怒りは、管理社会に対する猛烈な反発だった。あれからちょうど四十年。その叫びは色あせることなく、今なお重く響く。(八月二十九日、仙台市・イズミティ21)


「アラビアン・ナイト」と「殺人狂時代」を推す 悲劇喜劇 2003年3月号 中村哮夫 

 2002年、まっすぐに私の心に飛び込んで来た作品が二本あった。一本は青山円形劇場での文学座公演「アラビアン・ナイト」。もう一本は流山児★事務所による、本多劇場「殺人狂時代」である。 
次なる一本は「殺人狂時代」。これもまた、テーマの持つとげとげしさが時間と空間の質に鮮やかに転位され、ぷっ飛んだような高いテンションをぐつと抑制しきった流山児祥の演出が見事だった。鐘下辰男の本も主題のもつ狂熱を冷静かつ緻密に十二人の男のディスカッション劇として成立させ、台詞書きとしての高い能力を示した。久しぶりに硬質のせりふ劇を堪能した思いがある。せりふ劇と言ったが決して静的なものではない。対話の中に「動」が満ち溢れている。それを空間に解き放つミザン・セーヌに流山児は冴えを見せた。彼には今の時代珍しいアナーキーな力感がある。アナーキズムの系譜をたどれば、大杉栄の昔から、ある演劇的エネルギーと結び合っていたように思える。戦後文学で坂口安吾などの無頼派もそれに隣接しているだろうし、昭和期後半の日活や東映映画のある種のもの、特にロマン・ポルノの世界、それにオーバーラップして小劇場の隆盛が来る、その中で唐十郎と寺山修司がエポックをつくる。流山児という人はその流れの正統をつぐ人で「男だけの」 「荒くれた」 「肉体の」「B級の」と彼の好んで並べ立てるスローガンがここに間然するところなく舞台に立ち上がった。こんな言い方は彼にとって不本意かもしれないが、この舞台は美しかった。
 演技陣は小劇場系実力者の質の高いアンサンブルで、議論が白熱しても台詞が鮮明に聞こえたのは素晴らしい。大谷亮介、みのすけ、塩野谷正幸、若杉宏二、そして特に傑出したのはボケ老人、実は旧帝国陸軍の亡霊の如き、狂気の傭兵募集主を演じた能楽界の重鎮、観世榮夫である(思えば亡霊も狂気も能の世界そのものではないか)。そして近未来の日本でクーデターを企てる兵士募集というプロットが今日の世界情勢(例えばこの原稿を書いているのは一月の初めだが、雑誌の出る二月初旬にはアメリカはイラクを攻撃しているか)を鮮明に浮かび上がらせる。この老人の役にブッシュ大統領の顔がW(ダブ)るような気さえする。不安や憤りの実感。そういうレアな現代劇ならではの、ヒリヒリした皮膚感覚と凝縮された演劇美が奇跡的に結合した、これは珍重すべき一作であった。

『殺人狂時代』 毎日新聞夕刊 2002年6月27日 高橋 豊

 鐘下の「殺人狂時代」は、男性だけ13人の舞台である。老人に導かれ、傭兵募集の広告に応じた12人が倉庫の一室に閉じこめられる。「戦場委員会」が提案したクーデター作戦に参加するかどうか、全員一致で結論を出さなければならない。市街戦に通じるクーデターは無理、と簡単に決まるはずだったのだが、一人の男が参加すると言い張ったことから、状況が変わっていく。モチーフとなった戯曲・映画「十二人の怒れる男」同様、あるいはそれ以上、緊迫感のあるやりとりが続く。元自衛官、リストラされた会社員、元教師、学生など、さまざまな男たちが、心の裏側の思いをぶちまけ合う。
 戦前のクーデター分析から、どこを占拠すれば有効か、具体的な話に進むテンポがいい。有事関連法案、個人情報保護法案などが国会で審議される今の時代の「気分」が、観見事に射抜かれているのだ。みのすけ、塩野谷正幸、小川輝晃、大谷亮介ら個性派がそろうが、冒頭と幕切れだけの出演ながら観世栄夫が圧倒的な存在感。黒い笑いを入れた流山児祥の演出が良い。

『殺人狂時代』 朝日新聞 2002年6月15日(土) 今村 修

 アメリカの「正義」が世界を巻き込み、有事法制が議論される時代に、激しく熱いディスカッション劇が登場した。鐘下辰男作、流山児祥演出の流山児★事務所公演「殺人狂時代」は、破天荒な劇画的状況をテコに、「日本の今」を果敢に挑発する。生硬な部分も目に付くが、何よりその心意気を買いたい。
 「傭兵募集」の広告に応じた12人の男たちが、「戦場委員会」を名乗る法人(観世栄夫)に導かれて倉庫に集まってくる。委員会が叫ぶ「日本を覚醒させるための首都制圧」作戦への賛否を全員一致で決めろ、という要求を残して老人は去る。12人は閉じこめられ、果てしない議論が始まる。
 映画「十二人の怒れる男」のパロディーともいえる作品だ。若者を敵視する元教師(保村大和)、妻子を養うために応募したリストラ男(若杉宏二)、戦場を渡り歩いた元ジャーナリスト(みのすけ)……。議論の中から男たちの来歴も次第に明らかになる。
 だが、全員の人生がくっきりと浮かび上がるまでには至らないのが残念。物語の勢いに任せすぎたか。
 なぜ人を殺すのかという哲学論から実践的な戦術論まで、多岐にわたる議論の内容にも、底の浅い面が残る。にもかかわらず引き込まれてしまうのは、男たちが日本の現状に抱くいら立ちや不安を、見る側もまた共有しているからだ。そして、舞台は「では、どうすればいいのか」という直球の問いを突きつける。
 深刻になりがちな題材だが、そこはアナーキーな演出が真骨頂の流山児。遊びの要素も随所に盛り込み、観客を楽しませる。出演は少ないが、観世に不気味な存在感がある。ただ、幕切れはいささかまとめ過ぎ。カルタシスはあるが、ドラマの後味を薄めてしまった。16日まで、東京・下北沢の本多劇場。

『殺人狂時代』 テアトロ 大岡 淳

 流山児★事務所『殺人狂時代』は、鐘下辰男の脚本、流山児祥の演出。
 戦場委員会なる結社の傭兵募集に応じた十二人の男たち。監禁された彼らは、委員長なる若者が先導する、東京を騒乱に導くクーデター計画に参加するか否か、全員一致の結論を出すことを強いられる。当初、委員長に惚れこんだ男2(小川輝晃)を除く全員が計画の非現実性を笑うが、いつ有毒ガスで殺されるとも限らない極限状況で、日和見主義の男5(みのすけ)をはじめ、一人また一人と計画に賛同する。右翼的な男3(塩野谷正幸)は皇居襲撃を提案し、男2は原発占拠を提案する。今時のガキどもを嫌悪する元教師・男12(保村大和)ら三人は。汲み取り便所を抜けて脱出を試みるが、男たちを監禁した老人(観世栄夫)は三人を射殺し、残る面々を歓迎する。しかし男7(大谷亮介)は、自らの意志を守るためなおも意義を唱え、「敵を殺せ」とアジる老人に従い、男たちは呆然としつつ彼を射殺する。
 鐘下の脚本は、現代日本の戯画を意図しているが、いかんせん登場人物の設定がどれも類型的であり、数々語られる日本批判も『TVタックル』レベルとしか思えない。特に元自衛官の独白がコミカルに処理されていたのは不快だった。しかし、ただの絵空事に見えかねない物語を、硬派のエンタテイメントに仕上げる演出の力量は見事。観世演ずる老人が、旧軍の軍服をまとい糞まみれで踊り出る様は、大日本帝国の妖怪が地の底から復活したという風情で、圧巻。若杉宏二演ずる男8が、リストラされたサラリーマンの哀しみを体現して、印象深かった。

『殺人狂時代』 噂の真相 10月号 江森盛夫

 「殺人狂時代」は流山児版「12人の怒れる男」
 流山児★事務所公演「殺人狂時代」(作・鐘下辰男、演出・流山児祥)。「あなたも人を殺してみませんか?傭兵募集」という新聞広告に応じた12人の男たち。募集主「戦場委員会」の老人(観世栄夫)に導かれて彼らは、窓のないコンクリートの部屋に集まってくる。委員会の要求は「首都に騒乱を起こし国家国民の覚醒を目指す」作戦への賛否を全員一致で決めろというもの。「12人の怒れる男」が下敷きのディスカッションドラマだが、設定が全く違う荒唐無稽な劇。だが「朝ナマ」のような激論の渦に客はすぐに巻き込まれる。履歴は様々でも平均的日本人である12人の議論が露呈させるのは、この国のシステム・規範が崩壊していて共通の土台が流失し、議論は混迷を増すばかりの様相だ。その虚しさは今の日本のリアルだ。その混迷を切断して殺す、殺さぬの理不尽な二者択一を迫られる恐怖がこのドラマの落下点。議論の沸騰点で突如、大音響の騒乱/ソーラン節を鳴り響かせる流山児の、こみ上げてくる嘲笑を抑えきれない気分が舞台に充満する演出が鮮烈だ。

『殺人狂時代』 テアトロ 巻頭リレー劇評 渡辺保

 「殺人狂時代」は、「人を殺してみませんか」という勧誘に応じて集まった十二人の男の物語である。勧誘しているのは「戦場委員会」という得体の知れない団体だが、十二人の男たちは、その委員会の提案するクーデター計画に賛同するかしないかの答えを求められて一室に閉じこめられている。最初はこの奇想天外な展開にユーモアさえ感じた男たちも、最後には委員会の命令で仲間同士殺し合ってしまう。将来の日本を想像させるような凄惨な結末である。
 台詞だけのおよそ二時間余り。観世栄夫の無気味な、最初はヨボヨボの老人が最後には恐ろしい力をあらわす「戦場委員会」の使いをはじめ、中谷政雄以下十二人の男優がそれぞれ個性的で、久しぶりに手に汗を握る舞台であった。
 さまざまな意味で、平和ボケして危機意識を失った現代日本社会をリアルに描いている舞台だが、私がもっとも恐ろしいと思ったのは、議論に議論を重ねた挙げ句の果てに、現代日本の腐敗を鋭く指摘する一人の男を、みんながよってたかって殺してしまうラスト・シーンであった。殺される男の、こんな日本は滅んでしまった方がいいという指摘は、まさに現代日本の現状を射抜いており、私の胸に重く響いた。なぜか。私たちには、この男の指摘に反撥してどうにかすべき方策がないからであり、このような指摘にもかかわらず、もしこの指摘を押し殺さなければ生きられない、としたら、私たちもまたこの男を殺すだろうと思うからである。そこには現代の虚無がポッカリと穴をあけている。

『殺人狂時代』 劇評No.34 2002年7月15日  村井秀美

 演劇は時代を写す鏡であるが、有事体制のもと参戦国化がもくろまれ、他方で社会に閉塞感が深まる現在の情況を激しく痛快にえがいた劇が上演された。アングラ演劇の復権を掲げる流山児★事務所公演「殺人狂時代」である。作者の鐘下辰男は三十八才であるが、旧日本軍を題材に日本人の原型を探る数々の秀作を発表し、また朝鮮独立闘争の志土安重根を主人公とした「寒花」で国境を越えた視点を提出した。
 演出の流山児祥は、ダイナミックに役者の身体的演技を引き出し、観客を挑発しつつ過激なテーマを現前化するのに定評がある。
 一人の老人(観世栄夫)が一二人の若者たちを大きなコンクリート倉庫に招く。彼等は「傭兵募集 あなたも人を殺してみませんか?」という新聞広告に応募し、先ほどまで若い委員長の演説を聞いてきたのだ。「戦場委員会」というこの組織は、「日本を真の日本の姿に立ち返らせる」ための首都制圧騒乱を企画している。
 老人は一二人の意思統一をのぞんで退場(低音でソーラン節を歌って)。二つの大きな換気口の下がる閉ざされた空間で一二人の激烈な議論がはじまる。アメリカで民主主義を問うレジナルド・ローズ咲く「一二人の怒れる男」の枠組みを使って、ディスカッションの中から現代日本の当面する姿と若者像を浮き彫りにする試みである。
 議長には各地の紛争地域をまわってきた元ジャーナリストが選ばれ、一人ずつ意見表明を求める。「戦場委員会」の作戦に賛同する者は最初一人だけであったが、次々と賛同者がふえていく様には日本人の悪しき特性とは判っていても背に冷たいものが走る。
 最後まで反抗する元小学校教師は若者に異常な敵意を表明する。リストラされ妻子を養うために応募した男は、「豆粒みてぇな話を気球みたいに膨らまして、みんな浮き足立ち、そのしわ寄せはいつもなんの力もない俺たちだ」と慨嘆する。元外国傭兵経験者、元自衛隊員など戦場経験者とまったく初心者が討論の過程で判明する。
 議論はあちこちもつれ合ったり脱線しながらも、時に暴力的対立をはさみ、「民主主義的手続き」に沿って宗教・戦争・クーデター・「義」などの議論の末に戦術論に至る。
 首相官邸、防衛庁、国会同時襲撃やら戦後の五・一五や二・二六の失敗の原因、武器の調達、市街戦、マスコミの位置づけに及ぶ。はては自衛隊批判から天皇人質作戦、原発占拠まで提案される。天皇主催園遊会のシーンはケッサク。
 議論が沸騰した場面で、突如として元教師がこの計画全体への痛烈な反対意見を表明し、ここから逃げることを提案し行動に移るが銃撃される。随伴した二人の男もうたれる。
 先の老人が旧軍の軍服をまとい拳銃を持って登場する。ご苦労さんと各自に握手を求めるが、今まで慎重な意見を述べてきた年長の男が断固とした反対を表明し、「殺せ」という老人の声の中でエピローグを迎える。
 暗闇となった舞台から強烈なライトが客席に向けられ銃声が響いた。打たれたのは反抗する男か、老人か・印象深い幕切れである。客席に向けてのライトはタガンガ劇場のルュビーモフ演出作品や寺山修司作品にもあったが、この作品でも効果的。
 経験者、年長者の個性が経歴と共に鮮やかに描かれているのに比べて、初心者、年少者が個性的でない点が気になったが、一二人を描き分けることの困難さとは別に、そのようなものとしてしか把えることが出来ない「今時の若者」像であったのかも知れない。
 一見荒唐無稽なクーデターという状況設定の中に鋭く現実に切り込む論理があり、いらいら感の充満する観客に激しく問いかけるものがある。重いテーマを喜劇として、面白く見せてくれた。再演が待たれる。(6月7〜16日、下北沢本多劇場)


『最後から二番目の邪魔者』 2002年 朝日新聞 今村修

 悪夢を見ている人の頭をのぞいたら、こんな風景が見えるのだろうか。名古屋を拠点に活動する佃典彦(作)、天野天街(演出)コンビによる流山児★事務所公演「最後から二番目の邪魔者」は不条理な猥雑さに満ちた妄想のドラマだ。
 6畳一間のアパートに閉じこもり、紙相撲にふけるキムラ(若杉宏二)。歯の痛みと、のぞきのための望遠カメラだけが、現実との接点だ。そこに怪しげな男たちが次々に現れ、キムラを糾弾し始める。
 離婚した妻の現在の恋人(水谷ノブ)、宗教団体のメンバー(栗原茂)、パジャマの中年(流山児祥)、臨床心理士(さとうこうじ)とその見習い(稲増文)……。いずれもキムラと名乗る男達は、主人公が作り出した分身に見える。とすれば、唐突に場面を変えながら暴力的に続く押し問答は、終わりのない自問自答にほかならない。
 社会への言葉を封印した男が、内面で繰り広げる過剰な冗舌。佃はそれを乾いた筆致で劇画化する。主人公の人物像がいま一つ明確にならないし、力任せの粗っぽさも目に付く。だが、他者とのコミュニケーションや距離の取り方を見失いがちな現代の、ある種居心地の悪い空気は、確かに映し出している。
 シュールな舞台作りを得意とする天野の、遊びたっぷりの演出がさらにそれを強調する。20人近い裸の力士たちが懐メロに合わせて踊る幕開きはまさに不条理の極み。妄想の世界へ一瞬にして観客を連れ込む力技だ。時折挟み込まれる、ノイズ感の強い映像も観客を挑発する。
 俳優たちの無頼な演技と合わせ、かつてのアングラの空気が色濃く漂う"怪作"だ。

 

 『最後から二番目の邪魔物』  「新日本文学」 2002年7.8月号 黒羽英二

  客電が落ちると、狭いスズナリの舞台いっぱいにずらりと並んだ多勢の力士達が呼吸も荒くはげしいぶつかり稽古を続けている。そのすさまじさは息苦しく客に迫り動悸が高まってくるほどである。やがてそれは、出しっぱなしのこたつ、敷きっぱなしの蒲団、脱ぎっぱなしの衣服、流し台に山積みのカップラーメンがあり、窓の横に超望遠レンズが装着されたカメラが立っている、安アパートの六畳一間の、「ひきこもり男キムラ」 の部屋であることがわかり、力士達は、キムラ(若杉宏二)が長いこと取り組んでいる紙相撲だったのである。そこへ元妻の久美子と結婚することになっていて、子供の養育費の問題など持ち込む元妻の夫(あるいは「デカC」)(水谷ノブ)が現われる。更に宗教団休の男(あるいは「デカB」)(栗原茂)が芋虫教の勧誘に来る。姓はいずれもキムラである。そこへパジャマ男(あるいは「デカ長」)(流山児祥)が来て、毎晩九時になるとハダカのオレをキムラが覗いてくれるのに、なぜ最近覗いてくれないんだ、と蒲団の中へ逃げ込むキムラを蹴る。キムラは歯が痛いと逃げ廻る。そこへ友人(あるいは「デカA」)(イワオ)と臨床心理士の男(あるいは「赤い男」)(さとうこうじ)と見習いの男(あるいは「青い男」)(稲増文)が登場し、いろいろなテストをやり死んだキムラの女友達のことを告げる。また中北薬品の男(あるいは「歯医者A」)(甲津拓平)、富士薬品の男(あるいは「歯医者B」)(谷宗和)、常盤薬品の男(あるいは「歯医者C」)(関根靖晃)が来て、みんなキムラと名乗るのだが、虫歯の薬をくれる。トイレの中から母(あるいは「冷蔵庫の男」)(篠田エイジ)が、流し台の下から父(あるいは「吊された男」)(上田和弘)が現われ、紙相撲を止めて学校へ行けと言う。歯医者二人がやってきてキムラの首にロープをかけて天井裏の梁に引っ掛け、歯を抜くと言う。紙相撲の力士達は、再び開幕の時の本物の力士達に変わり、竜巻親方(あるいは「デカD」)(蒲公仁)が入って来て、「朝稽古始め!」と言い、ぶつかり稽古が始まる。キムラは吊されたままカップラーメンを食い、ガクンと脱力して首吊り死体となる。筋を追って紹介すれば、ほぼこのようになるが、常に現代社会の最先端の病める現象を独特な鋭い切り口でテーマに据えつける佃典彦の、今回は「ひきこもり男」、そしてメルヘン風、幻想風、更にはダランギニョール風残酷芝居の作りでオドロな世界を展開する天野天街演出の組合せの妙に、プラス、アングラ演劇の王者ともいうべき流山児祥がプロデュースして、自ら被害者(加害者)のパジャマ男に扮するという奇怪で魅力的な、更に若杉宏二を筆頭とする多彩な役者群の織りなす世界にしばしの間遊ばせてもらった。「ひきこもり少年青年中年」百万を越え、自殺者激増中の、日本の現在の先頭を走る怖い舞台だった。(三月二四日〜三一日・於・下北沢ザ・スズナリ)

 


『ハイ・ライフ』 テアトロ 2001年5月号 結城雅秀

 流山児★事務所による『ハイ・ライフ』。この直前に取り上げた作品と同様、「カナダ演劇祭2001」参加作品。昨年は『狂人教育』でヴィクトリア演劇祭2000でグランプリを受賞し、カナダとの縁が深い流山児祥の演出である。作者は役者でもあるカナダのリー・マクドゥーガル。この作品は1996年、巡業先の安宿での体験を基に書かれた彼の処女作であり、英語圏で広く公演されている。登場人物は現代カナダに生きる四人の男達。彼らの生き方はならず者ではあるが、自由で、かつエネルギッシュだ。現代社会において、規制を感じつつ順応主義として生きる人間にとっては、彼らの生き方は痛快である。懲りない生活を続ける自由奔放でジャンキーな、つまりゴミのような人生を闊達に描く舞台となった。
 この四人のうち指導的な役割を果たしているのがディック(若杉宏二)であり、麻薬を材料にしながらならず者達を引き付け、集団を組んで、銀行強盗などの稼ぎをしている。ディックは、バグ(塩野谷正幸)の出所にあたり、他の二人を巻き込んで、知能的な銀行強盗を企画する。仲間のうちの一人は他人のキャッシュ・カードを失敬して現金を引き出している肝臓病のドニー(きだつよし)と女にもてるタイプで美形のビリー(山本亨)。この四人のうち、ビリーだけが刑務所にいた経験をもたない。仲間割れもあるが、ディックは何とか彼らの間を取り持ち、「完全犯罪」と考えられる企画を実行に移す。成功するかに見えたところで、バグがビリーを殺してしまうことから、この罪をドニーに着せて再び入獄させる。数ヶ月後、ディックは懲りることもなくバグを次の企画に引きこもうとしているところで芝居が終わる。
 最初の場面でバグ(塩野谷)の回想が聞き取り難かったが、間もなくいつものパワーを取り戻し、粗暴なエネルギーの雰囲気を遺憾なく発揮した。ディック(若杉)は全体を通じて、乱暴な中にも企画を考え出す知的な雰囲気と巧妙なチーム・ワークを配慮する周到さを演じた。ドニー(きだ)は肉体的な弱々しさと精神の優しさを表現し、ビリー(山本)は女に言い寄る技術を好演した。中でもビリーが、ドニーに迫る場面、それに、モノローグで銀行員に話し掛ける場面が圧巻である。
 加藤ちかによる装置は単純なもので、役者の持ち味を引き出している。刑務所を象徴する鉄格子が芝居の冒頭で天井のように上昇し、それが少し降下して待機中の車内の雰囲気を出すところや、舞台の一部が上昇と下降を繰り返して、麻薬の効果を出している箇所が印象的だ。それにディックのもつ映画愛好家としての性格も効果的に使われている。
(3月10日、両国・シアターX=カイ)

 

『ハイ・ライフ』    テアトロ  2001年8月号  「2001年上半期舞台の収穫」   扇田昭彦

新しい翻訳劇では、「カナダ現代演劇祭2001」の一環としてシアターX(カイ)で上演された流山児★事務所
公演『ハイIライフ』が出色の出来栄えだった。銀行強盗をもくろむ薬物中毒の男たちを描くこっけいで無残な
物語だ。塩野谷正章、山本亨らの演技には役柄にぴったりの魅力的なリアリティがあり、流山児の演出も洗練されていた。

 

『ハイ・ライフ』 テアトロ 2002年3月号 「2001年舞台ベストワン」  みなもとごろう

「ハイ・ライフ」は、網のようなと言うか鉄格子のようなと言うか、そうした無機質に人間を囲ったり取りこめたり
するパネルを使った装置が具象性と抽象性とを兼ね備えた、一種の象徴性を持っていて、強く印象的だった。
麻薬中毒の男たちが銀行強盗を計画して、結局失敗する話である。麻薬と言い、銀行強盗と言い、彼ら若者か
ら言えば雁字端めの管理社会への反抗と言うことになるのだが、銀行強盗はほかならぬ細心の注意、すなわち
別の意味で究極の管理社会を形成しなければ、成功しない。つまり、彼らが個人として希求するより良い生活
(台本を検討していないのでよくは分からないがハイ・ライフというタイトルは、麻薬づけのハイな状態と高級
なという両裏話なのであろう)は、その個としてのモチーフの強さゆえに逆に失敗を内包している。ハイ・ライ
フがハイ・ライフを否定しているのだ。と同時に、この舞台ではスカトロジックな現象が失敗の一因として現れ
るが、恐らくここにもっとも素朴な人間のいつわることの出来ない生理が現れているとも言えるのである。
また、鉄格子は観る方によって内側と外側の意味が逆転するのだ。
わたしとしては、世紀と言うより千年紀をまたぐ意識を、こうした舞台に見たいのである。どこか知的な装いを
全く感じさせない「ハイ・ライフ」の流露感を買いたい。

 

『ハイ・ライフ』   千年紀文学   小畑精和

「ハイ・ライフ」は、酒とドラッグに溺れる四人の若者が銀行強盗に失敗するというお定まりのストーリーながら、
個性豊かな四人が繰り広げる「悲しいまでにコツケイな」ドラマが観客を魅了する。舞台はボクシングのリング
のように四角で観客席が四方を取り囲んでいる。一番奥の席は舞台として使われることがあるので、実際は三
方に観客が座っている。こうした舞台構成は、役者が「リング」にあがると、もがき闘う姿が強調され、そこから
降りると日常空間に戻ったような印象を与える。こうして、現実世界では目を背けられるに違いない低俗な若
者たちのパフォーマンスが異空間で繰り広げられることにより、鑑賞の対象となり、その意味が新たに問われ
るようになるのである。


『狂人教育』 テアトロ 2000年11月号 大岡 淳

 流山児★事務所『狂人教育』は、寺山修司の初期戯曲を流山児祥が演出したもの。カナダ・ビクトリア国際演劇祭2000で見事グランプリを受賞した凱旋公演である。
 これは、本来人形劇として構想された戯曲である。流山児演出は、物語を演ずる人形たちを女優陣が、その人形たちを操る人形遣いを男優陣が演ずるという、明快な仕掛けを施した。人形たちが演ずるのは、ある家族の物語である。「この中にひとり気違いがいる」と宣告された家族。気違いは一体誰なのか、よもや自分は気違いではないはずだ、と戦々恐々とする面々を、ただひとり寛容な愛情をもって、冷静に見つめる息子・蘭。しかし一家は、己が突出して見られることを恐れるあまり、次々に互いの振舞を模倣するに至る。モノマネ合戦についていけず「いったいどうしちゃったの?!」と叫ぶ蘭に対し、正気でいようとする狂気に憑かれた一家は「気違いはお前だ!」と宣告し、血祭りに上げる。
 以前、佐藤信演出の『狂人教育』を観た際は日本的な「いじめ」の風土を想起したのだが、今回は「ユダヤ人とは、ユダヤ人とみなしている者のことである」というサルトル『ユダヤ人』の議論を想起した。これは、この芝居が海外の観客の目を意識して作られているせいかもしれない。実際劇中歌の数々(音楽=本田実)は、てらいのない"日本語英語"で歌われていた(英語は既に英米人の占有物ではないのだから、もちろんこれで良いのである)。カナダでも、また凱旋公演の後に遠征したエジプト・カイロ国際実験演劇祭でも観客は大いに湧いていたそうだが、さもありなん。私自身、下手な日本趣味に頼らないストレートな演出に好感を持った・寺山戯曲の実験性は、良い意味でわかりやすいものであって、流山児演出のセノグラフィも、ロープで囲まれた空間の内側が人形、外側が人形遣いのエリアとなる、明瞭な図式を提示していた(美術=加藤ちか)。そして最後には、操る者と操られる者の関係が逆転し、日常と非日常の転倒が目論まれる。インターナショナルな視点に耐えうる"古典"として、寺山作品が再生する機会に立ち会えたことを、素直に喜んでおきたい。役者の力量にはいささかむらがあると感じたが、蘭を演じた青木砂織、その蘭を操る人形遣いを演じた沖田乱が、それぞれ力強い芝居を見せてくれた。


『HappyDays』 日本経済新聞(夕刊) 2000年2月24日 長谷部 浩

 鐘下辰男は、戦時下の日本を中心に人間の暴力性を描いてきた社会派である。一方、ケラリーノ・サンドロヴィッチ(以下、ケラ)は、ナンセンスや奇想が炸裂するポップな作風で知られている。ふたりはともに劇作、演出を手掛けるが、『HappyDays』では、鐘下の戯曲をケラが演出すると聞いて、いったいどんな舞台ができあがるのか、いぶかしく思って劇場にでかけた。
 没落した地方の旧家。床はきしみ、土台は白アリに食いつぶされた家では、老人性痴呆症で周囲を悩ませていた母親が不審な死をとげた。葬儀のために東京から帰ってきた末弟(篠井英介)は、粗暴で金融業を営む長兄(塩野谷正幸)、地元の教師をつとめる次兄(ラサール石井)のどちらかが、殺したのではないかと疑いはじめる。臨月近い長男の妻(今江冬子)と末弟は、かつて恋愛をし、母親にその仲を引き裂かれた過去があった。今はひそかに次兄と関係がある。三人の兄弟の精神もまた、この家のように崩壊の危機にある。
 産業廃棄物、地域の文化行政、家庭内暴力など現在を象徴する問題が、これでもかというほど詰め込まれた戯曲である。事件の背景が恣意的に書かれ、鐘下作品のなかででも一級とはいいがたい。しかし、ケラは深刻な暗い台本を、淡々とした手つきで、ときにケラ独特の間を生かした笑いをまじえ演出している。絶叫は最小限に押さえ込まれ、人物の動かし方も的確である。現代の観客を確実に把握しつつ、戯曲の本質を失わない。オーソドックスな演出家としての実力を証明した。
 三人兄弟の内側にある狂気が鮮烈。篠井、塩野谷、ラサールの個性が際立つ。今江はこころの暗部を隠した女性を着実に演じている。海津義孝、山中聡、井沢希旨子らも、痛んだ人間のありようを突きつける。
 意外な顔合わせが思いもかけぬ舞台を生んだ。企画制作の功績は大きい。ケラ演出による近代劇、たとえばイプセンを見てみたくなった。

『HappyDays』 テアトロ2000年4月号 結城雅秀

 流山児★事務所による『HappyDays』。事務所設立の15周年記念公演で気合いが入っている。作・鐘下辰男、演出・ケラリーノ・サンドロヴィッチ、企画制作・流山児祥と異色の組み合わせだ。それぞれ異なる才能の最良の部分を結合させたエネルギッシュな公演となった。役者も皆、生きた存在として大活躍している。
 舞台は田舎の旧家。旧地主の長男、栄一(塩野谷正幸)は、阿漕な金融業を営みながら、落ちぶれていく「鬼藤家」を守ろうと必死になっている。山林も田畑も売り渡してしまった栄一にとって、今や残された手段は、この家自体を文化遺産として村に購入させることしかない。そのため、家が白蟻にやられていつつあることが発覚することを極度に恐れている。鬼藤家は狂気の血筋であり、栄一の父親は猟銃で自殺。今や母親も痴呆症となって奇怪な死を遂げた。母の葬儀で、東京に行っていた三男、晃(篠井英介)が戻ってきた。晃は栄一が母を殺害したのではないかと疑っている。第一幕で晃は「確かな証拠が欲しい」とハムレットのような台詞を述べるが、第二幕では彼自身も狂気であることが判明する。次男の賢次(ラサール石井)は地元で教師をしているが、長男の妻と恋愛関係にあり、その関係が破滅した時点で鉄道自殺する。母親の死の真相は晃の妻、里美(井沢希旨子)が解明するのだが、その頃には栄一も猟銃自殺し、晃も完全な狂気となり、鬼藤家の男達は皆、幸福な日々に暮らす状況に至ると言う物語。
 あらゆる役者がパワフルに迫り来る存在となって芝居を構成している。特に、晃(篠井)は前半で小説家志望の青年を好演し、後半では狂気の中で母の霊に取り憑かれた様子を熱演した。真っ黒に汚れた顔が雨で洗われて彼の顔が出現する場面で、戦慄の狂気を演じた。賢次(ラサール)は自分の子供を宿した兄嫁を熱愛する様子を、栄一(塩野谷)は気が小さいながら長男としての責任を果たさねばならぬ重圧からの苦悩を、それぞれ圧倒的な存在感をもって熱演している。この他にも、この家の男達と関係する響子(今江冬子)、妹の怜子(新谷真弓)、晃の妻(井沢)が切れの鋭い演技を見せている。中でも響子は、若い日々に晃との仲を母親に引き裂かれたことからくる恨みを後年昇華しつつも、やはり復讐を果たす複雑な心境をよく演じた。白蟻駆除の谷村(海津義孝)はいつものように深い、ドスの効いた声だ。
 舞台美術(加藤ちか)は、上手に居間、下手に仏間を配置し、田舎の旧家の雰囲気を良く出している。居間の位置の高い部分に配置された柱時計や仏間にある先祖代々の遺影も印象的。

『HappyDays』 スポーツニッポン 2000年2月23日 木村隆
 
 タイトルからして皮肉だが、脚本・鐘下辰男、演出・ケラリーノ・サンドロヴィッチ、製作・流山児祥という異色の組み合わせもちょっとした皮肉。
 三者三様、いずれも"小劇場の雄"だ。重厚で硬派な鐘下、軽妙で軟派なケラを剛腕・流山児が結びつけるとーーー。日本および日本人の抱える問題を<切実>か<笑いにくるむ>かの見せ方が違うだけで、それぞれの本質は同根であることが見えてくる。
 地方の没落旧家の物語だ。三男(篠井英介)が15年ぶりに帰郷する。上がり込んだ家の床がきしむ。耐えられない刺激臭が鼻をつく。締め切られた雨戸を開け放つ。そこへ二男(ラサール石井)、間をおいて長男(塩野谷正幸)が帰ってくる。三男の実母の葬式だったのだ。
 うさん臭い幕あけ。いきなり客席の好奇心をぐいとつかむ腕力がある。山っ気の強い長男、気弱な二男、一見"まとも"な三男。塩野谷、ラサール、篠井の個性が生きた。三男が突然"母は殺された"と言って波紋を投げて、が然ミステリー仕立てになる。
 話は二転、三転しながら血と暴力、死のにおいが立ちこめてくる。産廃、老人性痴呆症、老人介護など現代を象徴する問題も適度に取り入れて、人間誰の中にも潜む<病気と正常>の境界線のあいまいさ、恐怖感を告発する。
 生々しいまでに迫真的な舞台だ。加藤ちかの美術がいい。今江冬子、新谷真弓が好演。27日まで本多劇場。

 

 


 ツイン・ベッド −カルカッタの眠れない夜−』 新日本文学1997年12月号  黒羽英二

インドはカルカッタのうらぶれた安宿の一室。舞台中央に、このホテルには不似合いに大きいシングルベッドが二つ、ぴったりくっついて並べてあって、ダブルベッドのように横向きに置いてある。上手奥にドアが、上手前の壁に小さな冷蔵庫とクロゼット、下手に窓、机と椅子、テレビとラジオがあり、天井には古ぼけた大型扇風機が回っている。怪しげな、ヤクザ経営の会社の部長、佐古(有薗芳記)も、その部下の岡島(流山児祥)も、このベッドが気になって、本来のシングルの姿に戻そうと滞身の力を入れて引っ張ってみるのだが、頑として動かない。他に空いている部屋を交渉してみるが、室はない。  と来れば、もうおわかりのように、この二人は蒸し暑いカルカッタの夜を、クーラーの効かない(佐古が壊してしまったのである)おんぼろホテルの狭い一室に、鼠のように閉じ込められてしまったのである。  この先の展開は、藻掻き、足掻き、きりきり舞いして、喚き散らし、破滅して行く二人の世界に取り込まれ、絡めとられて、二人と共に過ごし、一喜一憂して、客電が入るのを待つことになるだろうと覚悟を決めていたが、この読みは、半ば当たり、半ばはずれることになった。  二人がはるばるインドまで来たのは、幻の媚薬と言われる怪しげなスパニッシュ・フライなるものを入手してボロ儲けするためであった。総長と呼んでいる日本の兄に対していい返事を持って行かなければならない佐古は、いつまで経っても、どこまで行っても入手できないスパニッシュ・フライに苛立って、ひたすら部下の岡島に、理不尽な言い掛りをつけては、当たり散らして、憂さ晴らしをする。そのしつこさは、空威張りと、卑小な人格のすべてを、剥出しにして、サディスティックに岡島に迫り、挑発する。イジメなどという生易しいものではなく、生理的な不快感を催すほどの凄まじい台詞と身振りが、間断なく、ほとんど機関銃のように浴びせられる。エドワード・オールビーの「動物園物語」や「バージニア・ウルフなんてこわくない」が浮んでしまうほど、このしつこさは日本人の域を越えている。あまりのしつこさに、却って、佐古というヤクザ部長の無知、愚かさ、 幼稚さ加減、卑怯未練振り等が露呈してきて寧ろ可愛らしくさえ思えてくるほどで、客席からは笑い声が起らざるを得ないのである。  この笑いの対象には、嫌でも観客自身を含めて日本人なるものを想定することから逃れられないように舞台が出来ていることに気づかないわけには行かない。この巧みな劇の展開を、平均的日本人の、或いはそれを下まわる貧しいと言ってもいい身体で、思いっきり突き付けて来るのは、有薗芳記のずば抜けた才能である。 実際、MODEの舞台の数々、或いは、それ以前の、若さにまかせて舞台狭しと駈け廻っていた一昔も前の時代から突出して気になる役者ではあったが、この佐古の役を他に誰がやれるだろうか、というほどの、まさに出色の出来栄えであった。  この佐古を、はとんどマゾヒスチックに受け止めて、慰め、励まし、なにくれとなく面倒を見続ける岡島には七歳の女の子がいるが、いわゆる「全共闘崩れ」で四十歳を越えてからの結婚だった。佐古を上司と仰ぐ関係になってしまったのは、刑務所で佐古の兄の「総長」と知り合ったからである。ここへ来るまでには、不動産屋、外車ディーラー、金融業、学習塾経営等、いろいろ渡り歩いてきていた。我慢強さは、この職歴の中で養われてきたもののようだ。そして岡島の一見おのれを殺して部長に対応している一挙手一投足の中に、挫折を続けながらも社会の底辺をしたたかに生きて行く男の、あきらめと悲哀を共有して客は秘かに拍手を送るのである。だが岡島は、男らしい生き方の具現者というよりは、東大出のエスタブリッシュメントたちを裏で支配していると豪語する佐古たちヤクザとはネガとポジ、或いはボケとツツコミの関係にあるのではないかとさえ思われるように劇は進められて行くのだ。  この岡島を、有薗とは対照的に平均的日本人以上に堂々たる体躯の流山児祥が演じているところが面白い。作家、演出家、プロデューサーとしての流山児祥を知る者は多いが、チヨイ役ではなく、長丁場の大役をこなして行く俳優の流山児祥を正当に評価している人の数はあまり多くはないのではないかという気がする。「がめつい奴」のような商業演劇から「罠」のような翻訳物、その他いくつもの舞台をここ十数年観てきたが、いずれも濃厚な存在感の漂う大役をこなしていて強く印象に残っている。どちらかと言えば役を自分に引き付けて演ずるタイプで、やや大味なところがいいのである。これと対照的なのが有薗芳記で、限りなく役の中へ自分を埋没させて行くタイプの役者である。この二人が作る舞台が面白くならない筈はないが、作・演出の水谷龍二が火をつけなければ二人は燃え上がらなかつたかも知れない。  「アジアの中の日本」ということまで考えさせられた濃密な一時間二十分であつた。       

 

『ツイン・ベッド −カルカッタの眠れない夜−』 月刊シナリオ教室  1997年11月号  坂井昌三  

 ザ・スズナリ。出し物はサブタイトルが「カルカッタの眠れない夜」うす汚れた中年の男二人芝居。  概略はこうです。二人は幻の楯薬を探しにインドをさ迷い、ヘロヘロになってカルカッ タにたどり着く。その眠れない一晩のお話。 やっと見付けたホテルには一部屋しか空い ていず、むさくるしい中年二人組は相部屋になる。それも、名ばかりのツイン・ベットで 分離できない。つまり、ちょいと大きめのシングル・ベットで、大の男が二人も寝るスペースはない。まして灼熱のインドです。そのうえクーラーが壊れる運のわるさ。 ひたすら愚痴まくる部長 (有薗芳記) は小男で小心。インドの猛暑と下痢に打ちのめされて、今すぐにも日本に帰りたがっている。 もう一人は部下(流山児祥)。こちらは逆に大男で見掛けどうりの豪胆さ。型どうりだが、どちらが上司か分からない奇妙なおかしさ。  ありもしない婚薬を探す凸凹コンビのむなしい旅は、突然おわりそうでもあり、永遠に 続くようでもある。 熱くて不潔なカルカッタの眠れない夜があけても、なにひとつ解決せず、愚痴を連射し続けていた小男の不意の眠りで芝居は終わる。  私は小さな劇場と小人数の芝居を限りなく愛してやまないのです。それは、目の前で生身の役者が、作家の捻り出した玉石混交の台詞を噛み締めるように発し、もしくは連射するのを見ると、おのずと気持ちが揺さぶられるのです。  私はよく笑った。実に他愛ない台詞で笑ってしまう。入院のせいで映像以上に言葉に飢 えていたのだと思う。

 


                                                                                                  

『血は立ったまま眠っている』   「悲劇喜劇」2000年7月号 岡村春彦                                             

   流山児祥は、ジァン・ジァンに惚れてここを活動の拠点にしていて、今回三回目の公演になる「血は立ったまま眠っている」をレパートリーに選んだんですね。若い役者たちも頑張っていて、演出も含めたその熱気が超満員の若いお客たちにも感動をあたえていたと思います。

 コンクリートの裸舞台の真ん中に便器を置いて、そこを中心に演出家のいう「負け犬たちの栄光と欲望のめぐる残照劇」が展開されるわけですが、ほぼ四十年前に書かれたのに色褪せて見えなかったのは、作品の良さもあるが、やはり今回は演出の力があってのことだったと思います。

 ジァン・ジァンは今のように沢山の芝居のスペースがない時代に生まれ、本当に頑張って持続してくれた空間です。 僕も何回かジァン・ジァンで演出したし、沢山のジァン・ジァン芝居を観せてもらったので、本当に心を込めて、ジァン・ジァンありがとう、さようならという気持です。

 


楽塾 『黄昏のビギン』「新日本文学」2002年7.8月号 黒羽英二

 月蝕歌劇団公演のために書き下ろし、すでに同劇団によって上演されていた高取美作「G線上のアリア〜松井須磨子・フランス革命異聞〜」を、流山児祥が構成し直して演出したものである。

 開幕。モノクロームで松井須磨子が映し出され、当時の松井須磨子の吹き込んだと思われるすり切れたレコードの声で「カチューシャの唄」が場内に流れる。須磨子が消えると、たちまち「ラ・マルセイエーズ」が流れ、鉄格子が映し出される。ルーヴェとロベスピエールが登場し、おなじみのフランス革命の話になり、島村抱月、松井須磨子、坪内逍遥の活躍した芸術座の話とフランス革命、そして現代の家庭に、女子高校生等を、混入、交叉させて、過去、現在を攪拌し、時空を超えた幻想的舞台を展開するという高取英独特の世界(これを「高取曼陀羅」「高取ワールド」と私は名づけたことがあるが)を、ともすれば、わかりにくく冗長になり勝ちな世界を、簡潔にわかり易く短く作り直したのが今回の舞台である。そして何よりも大きな違いは、高取率いる「月蝕歌劇団」が少女の匂いの抜けていない若い娘たちによって演じられているのに対して、「楽塾」版では、一部の援軍を除いて四十五歳以上の役者ばかりで、五年前に、年一度の公演計画を立てて「楽塾」として発足した、劇界では特殊な存在だが、流山児流のきびしい稽古のせいか、素人劇を見るような危倶はまったく感じさせない。……どころか、月蝕版が若い女優陣のために出せなかった奥行のある世界を展開していて、誰でも知っている話を新鮮に見ることができたのは収穫だった。そして、なぜかチェーホフが劇の世界に入って行った時代の帝政ロシアの末期に、町でも村でも演劇が非常に盛んで民衆の生活の中に、劇の上演と鑑賞が取り入れられていたことや、わが国でも江戸時代の末期には同じことが起り、今尚、全国の村に舞台が残っていて廻り舞台まであるのを見たことがあるが、日本の今もいよいよその方向に進み始めたことを知って、大いに喜びたい。

(四月二九日〜五月三日・於・スペース早稲田)

 


『焼跡のマクベス』  テアトロ」1997年2月号結城雅秀

徹底したマクベス――流山児★事務所【焼跡のマクベス】

 今月は「マクベス」の改作ものが二つあった。いずれも原作の形式を殆んど留めていない。だが、二つとも原作を咀嚼し、そこから特定の要素を発展させたり、新たな独自の解釈を追求したりしている。

 流山児★事務所の『焼跡のマクベス』。脚本ほ山元清多、演出は流山児祥。原作が福田善之の「焼跡の女侠」であることから、「マクベス」の脚色というよりは時として『私の下町―母の写真』を思い出させるものがある。活気に満ちた舞台となり、流山児祥の「演出一五〇本」記念を飾るものとなった。

 終戦直後の焼跡となった街。靴磨きの少年や米兵相手の売春婦が横行している。そこに、戦前から映画館を維持してきた母親(渡辺美佐子)が居た。外地から復員してくる人々の様子がニュース映画で映し出される。やがて、戦死したと思っていた息子(塩野谷正幸)が帰国する。母は四代目組長の情婦になっており、息子は「死に残った」心境の中で欝々としているが、靴磨き少年(西山水木)の「予言」によって力を、また「マクベス夫人」の役割を果たす母親から勇気を得て、四代目を殺害し、五代目に治まる。焼跡ではやくざの縄張り争いが活発化していた。

 映画館という設定が人生を相対化することに役立っている。島次郎の装置はそのことを強調しており、舞台には両端に二つの梯子があるだけだ。その梯子の間にワイヤーが掛けられており、白い布がカーテンのように垂れ下がっている。この布に映像ニュースが映し出され、復員や天皇の行幸の様子が知らされる。人生そのものが、この白い布に映じた虚像のように思われるのだ。すべては、ここに勤務する映写技師(林次樹)の回想という形式をとっており、彼は舞台下手に常に存在してフィルムの切断に対処するようになっている。技師の役割について述べたりする何でもない台詞が妙に説得力をもっている。最後の場面も、ここでは彼がマクベスを演じており、「馬をくれ」でほなく「フィルムをくれ」と訴えているのである。

 魔女の役割を演じているのは、ここでは映画の合間に実演を演じるストリップの踊り子たち。靴磨きの少年は後にこの踊り子に加わるのだが、その間の西山水木の演技は恐ろしく煽情的だ。これには振付のジョルジュ高橋の役割があったと思われる。ロマン・ボランスキーは監督した『マクベス』において、魔女をエロティックな存在にしたが、そのことを思い出させる。そう言えば、ボランスキーは最近の『マスター・クラス』においてマリア・カラスをも官能的な女性に仕上げている。魔女の関連では、やり手婆を演じる北村魚がやはり存在感のある演技を見せた。

 マクベスにとってのシートンを演じるのは傷痍軍人の男(悪源大義平)だが、彼は「息子」が復員してくる場面から抗争に巻き込まれて殺害される場面に至るまで、台詞の技が光っていた。(12・5、下北沢・本多劇場)

 


『みどりの星のおちる先』  「テアトロ」1999年9月号  七字英輔

 流山児★事務所の創立十五周年記念公演『みどりの星のおちる先』(鈴江俊郎作、流山児祥演出、本多劇場)も、索漠とした後味を残す喜劇である。鈴江のこれまでの作品には、どこにでもいそうな普通の人々の生活の、日常を逸脱した行為や感覚を掬いあげてみせるものが多かったが、今回は違う。プロ野球選手という特殊な職業を取り上げ、しかも珍しくストレートな「喜劇」に仕立てている。

 舞台となるのは、プロ球団の遠征先のホテルのロビー。滞在している野球選手たちの生態が、試合当日の夜から翌日の夕方までのほぼ一昼夜、思い切り戯画化されて描かれている。なかでも話の大きな柱になるのが、主軸のピッチャーらが堂々と行っている「八百長」のことだ。スポーツ誌の女性記者(植野葉子)がスクープ記事として掲載する旨を予告しに来たとき、監督(三田村周三)は、主力選手を集めて、決然とした態度で八百長をやめるよう説得するのだが、事態はまったくというほど好転しない。腐敗は、八百長選手以外にも、プロ野球への誇りや情熱を失わせるというかたちで、確実に浸透していた。彼らの前で立ち往生するしかない監督や球団マネジャー(青木砂織)。大詰に、新人の林(山中聡)によってプロ野球生活への、些か過剰なほどの愛と意気込みを綴った両親宛の手紙が読まれるが、いずれは彼の純朴な情熱も潰えさることを予感させるように、降りつづく雨の中に濡れながら佇む大勢の選手たちの姿を見せる。全く希望のないラストである。

 むろん、いくら外部の者が立入り禁止であるとはいえ、ホテルのロビーで白昼に暴力団員を交えて「八百長」について議論するなどという設定にリアリティがないのはいうまでもない。しかし「金と女」の派手な生活のルーティンの中で、選手たちが少しずつ常規を失っていくというモチーフには説得力があり、彼らの閉塞的な環境がバブル以後の日本社会の比喩になっていることにも気づかされる。「八百長」は、出口の見えない日本社会が生み出す陥穿なのである。


  『愛の乞食』    「テアトロ」1998年2月号   長谷部浩

ミドリのおばさん実は元海賊の尼蔵を演じた古田新太には、舞台を制圧するだけの支配力がある。しかも、それは暴力的な圧力として感じられるのではなく、芙蓉の花にでもたとえたいくらいの甘く豊かな波動を観客に伝える。東京の演劇シーンで、頂点にたつ俳優をあげよと問われたなら、迷わず彼の名前をまっさきにあげるだろう。

 


『盟三五大切〜ピカレスク南北〜』「テアトロ」1996年3月号 斎藤借子

 年が明けた新聞紙上で、山田洋次がこのようなことを述べていた。今日の映画界を代表し、小津安二郎の影響を強く受けている若い世代の監督について、彼らのさめた目で距離を置いて人間をみつめるという静的な作風″に、ものを考えたい、あるいは考えるという時間を待ちたいという、A′のぼくたち日本人の願い、戦後五十年をひたすら走り続けた体に起きた金属疲労の警告のようなものを感じないわけにはいかない‥そして、今日はひたむきさより、さめた目で静かにみつめることが好まれる″時代になった、というのである。

 この状況は演劇にも当てはまるかもしれない。それにしても、これまで走り続けてきた世代、とくに60年代からあらあらしく疾走してきたアングラの先導世代は、四分の一世紀を経ようとしているこの時代になって、否応なく各人各様に自らの表現に向き直っている。もちろん、さめて静かに見つめるというのみのことであれば、彼らの世代にも早くから別役や太田のような作家がいるわけだが、人生に対する張りつめ方が異なった。やはりどちらかと言うとひたむき″なのだ。 

山田洋次のひたむきさというより″と述べたことには、さめて静かにと続く前に、まず息を抜くということが暗に示されている。

するとそこには、平凡な日常生活が広がり、そこで生きるしかないわれわれがいることに気付く。ひたむきさ″と息を抜く″とのはぎまで、旧世代として重くこの時代の変化に対照的な対応をしている二つの舞台に出合った。

 流山児★事務所はこれまでもシェイクスピア、寺山などを素材に死に向けて疾走する若者の生き様を描いた舞台を作って来たが、鶴屋南北原作、山元清多脚本、流山児祥演出の 『ピカレスク南北〜盟三五大切〜より』は、ひたすら走る″人生ということがグロテスクそのものになる構図を表現した舞台の集成ともいうべきもの。台本も演出

 

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