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2005年春 札幌・名古屋・大阪公演
ハイ・ライフ

High Life

撮影:アライテツヤ

作/リー・マクドゥーガル
翻訳/吉原豊司  
台本・演出/流山児祥
音楽/トムソン・ハイウェイ

( 撮影:安井豊彦)

出演/千葉哲也・塩野谷正幸・若杉宏二・小川輝晃

照明/沖野隆一 音響/藤田赤目 美術/塩野谷正幸 振付/北村真実
舞台監督/吉木均 映像/島田暁 照明操作/小木曽千倉 音響操作/畝部七歩
宣伝美術/サワダミユキ 宣伝写真/アライテツヤ 制作/米山恭子
 平成17年度文化庁芸術創造団体重点支援事業

 


札幌公演

 4月9日(土)・10日(日)      会場ターミナルプラザ琴似パトス

9日19:30 /  10日14:00・19:00
※2005「SHOOT THE WORKS」参加  

お問い合わせ先
NPO法人 コンカリーニョ
札幌市 西区 琴似1条4丁目 2-12
TEL/FAX : 011-615-4859
E-mail :
info@concarino.or.jp
 


名古屋公演

4月15日(金)〜17日(日)    会場愛知県芸術劇場小ホール
第5回愛知県芸術劇場フェスティバル参加作品

15日(金)19:00
16日(土)14:00 (アフタートーク有り) /  19:00
17日(日)14:00
 


大阪公演

4月19日(火)〜21日(木)            会場梅田HEP HALL

4月19日(火) 19:00
4月20日(水) 19:00
4月21日(木) 19:00
 


 

あらすじ
世のならわしや常識でがんじがらめに縛られた普通人には到底まね出来ない、胸のすくような自由人4人の冒険と失敗譚。

登場人物は中年のチンピラ・ジャンキー4人。口八丁手八丁、策士のディック。刑務所から出てきたばかりのバグ。腎臓がイカれてしまったコソ泥ドニー。そして、したたかな二枚目ビリー。男たちが銀行強盗を企むところから物語は始まります。目指すは街角のATM現金自動受払機。一世一代の大仕事を成功させ、田舎に引っ込んで『豊かな老後』を実現しようというデイックとバグ。一儲けして、もう1ラウンド生きながらえようというドニー等、胸のうちはそれぞれ。しかし、壮大な計画は仲間割れで見事に頓挫。元の暮らしに逆戻り……。


劇評

朝日新聞 グランプリは『ハイ・ライフ』 2005年5月25日 桐山健一

公募4劇団が「異文化との出会い」をテーマに競演した愛知県芸術劇場フェスティバルが閉幕した。作品の出来は玉石混交だったが、アイデアと実験性には富み、目的の「地元演劇界の活性化」の成果はあったようだ。文字どうりの力作は流山児★事務所『ハイ・ライフ』だろう。胸に一物で銀行強盗を企てた4人のアナーキーで奔放な言動は、しがらみや世間体の呪縛下にある”常識人”を抑圧から解放してくれるかのように魅力的だ。千葉哲也、塩野谷正幸ら4男優がパワフルに表出する狂気と暴力と黒い笑いは痛快そのもの。俳優の肉体にこそ演劇の原点があることを再認識させた舞台であった。

中日新聞 舞台細見  2005年4月23日 安住恭子

男臭いハードボイルドを得意としてきた流山児★事務所が、その傑作を持ってきた。カナダのリー・マクドゥーガル作の『ハイ・ライフ』(流山児祥台本・演出)。翻訳劇と意識させない、ひりひりするような舞台だ。クスリを手に入れるためなら何でもする。そのことだけで生きてきた四人のジャンキーの物語。一人が三人を誘い、ATM強盗を持ちかける。クスリとタバコとビールだけで生きている彼らに綿密な共同作業などできるはずもなく、仲間割れし・・・という話だ。

舞台は、向かい合った客席に挟まれた四角い空間。四隅にベッドがあり、与太話か諍いかラリッてぶっ倒れているかという彼らの日常を端的に見せる。その小さな空間が彼らの世界のすべてなのだ。仲間が殺したり殺されても、何も変わらない。いかにもダメな男たちの、あまりにもこっけいで、どこまでも悲惨な姿である。

リーダーの千葉哲也、粗暴な塩野谷正幸、内臓全部がいかれている若杉宏二、ハンサムなゲイの小川輝晃が、それを一級のエンターテインメントとして見せる。彼らのキレのいい動きは、ほれぼれするほど魅力的だ。

そして一見特殊な彼らの話に、共感の輪を広げるのだ。小さな世界で身動きがとれずにもがいているのは、彼らだけではない。先に光が見えず、脱出する術もないところで、彼らと紙一重の生を生きているのではないか、と。

名古屋タイムズ 2005年4月20日 上野茂「見た!!観ゲキ」

愛知県芸術劇場演劇フェティバルのオープニング作品。2001年に初演、03年再演した劇団の代表作。4人の救いようのないアウトローの壮絶でこっけいな生きざまを描いたハードボイルド。

地なのか演技なのかは判断できないが、舞台の4人が放つ暴力的雰囲気には圧倒された。麻薬を打ち、興奮と快感にのた打ち回るさまは、人間の末路を見ているようで重く悲しい。両サイドを客席にした開放的な舞台のレイアウト。にもかかわらず、完ぺきに観客との距離を保った。訓練を重ねたプロの仕事である。

クライマックスは、銀行強盗をたくらみ、車中で待機するシーン。おびえと苛立ち、そして仲間割れ。車中は血の海と化し、計画は失敗する。それでも彼らは、それが天命であるかのように、また新たな犯罪を企てる。それを哀れとみるか小気味よいと感じるか・・・。

ともあれ、登場人物と俳優が同化した、圧巻の舞台だった。

 

スポーツニッポン 2003年12月9日 木村隆

 演劇界の風雲児的存在の流山児祥が演出200本を達成した。まだ56歳だからこれは大変な数字かもしれない。200本目の記念に選んだのはリー・マクドゥーガル作(吉原豊司訳)のカナダ戯曲。確かな手応えを感じさせ、なるほどこれはヒット演出の一本と呼べるものだった。
 1時間45分、短い中に凝縮された本もいいが演技陣のアンサンブルも見事だった。登場するのはワルばかり4人。うち3人は人生のほとんどをヘイの中で過ごしてしまったつまはじきものだ。もう一人だって小利口だからまだ臭いメシを食った経験がないだけでワルに変わりはない。社会の秩序の枠の中ではもう収まり切れないどうしようもない男ばかり。それでも見ていてそんな連中に次第に親近感を抱くのは、人間洞察へのユーモアと共感だ。
 千葉哲也がリーダー格ディック。一攫千金の悪事を練って仲間を集める。平然と人殺しのできる乱暴者バグが塩野谷正幸。内蔵のあちこちが破たんをきたし今にも倒れそうなドニーが若杉宏二。知恵者だが一番弱気なコソ泥だ。誰よりもカッコよくて女にモテそうなビリーが小川輝晃。それぞれが役割を決めてさあ夢の生活実現のための大仕事にとりかかるのだが、結果はお定まりの内部分裂でご破算になる。4人の俳優の迫真な演技に魅力がある。裸舞台を対面式で見る、この劇場(下北沢ザ・スズナリ)では珍しい試みも成功している。

テアトロ 2004年 2月号 中本信幸

 流山児★事務所のリー・マクドゥーガル=作、吉原豊司=訳、流山児祥=台本・演出、トムソン・ハイウェイ=音楽、『ハイ・ライフ』は、二年前に 「カナダ現代演劇祭」の一環としてシアターX(カイ) で初演され好評だったものの再演である。今回は、会場も共演のチームもちがう。
 現代カナダに生きる四人の男は、そろいもそろって麻薬依存症の若者たちで、銀行強盗を企てるが、仲間割れや不条理な生理現象のために失敗する。社会の規範から完全に離脱しているがゆえに、自由奔放にふるまう男たちの痛快な冒険物語は共感できる。
 塩野谷正幸、千葉哲也、若杉宏二、小川輝晃が、客席をはさんでの「なにもない空間」で熱演する。男たちはもっとふてぶてしく、あっけらかんとしているほうが、見る者に共感と想像の輪をひろげてくれるだろう。アナザーバージョンも上演する意欲的な企画である。再再演してほしい (12月9日、下北沢・ザ・スズナリ)。

テアトロ 2004年 2月号 巻頭リレー劇評 「今月選んだベストスリー 」渡辺保

 「ハイ・ライフ」はカナダのリー・マクドゥーガルの作品、すでに上演されたものだが、私ははじめてみた。簡単にいえば四人の麻薬常習者の夢見ている銀行強盗の話。男四人、一時間四十五分の芝居である。狂気と暴力と恐怖のサスペンスで、現代の人間の欠落した暗部を見せる。
 流山児の演出は、全ての出来事を四人の俳優が「演じている」ということを強調しながら、しかもそこにあらわれてくる、現代の深い絶望をあきらかにしている。その意味ではこれは現代の「ゴドーを待ちながら」のパロディでもある。彼等が待っているATMの修理係はついにやってこないからである。そればかりではない。銀行強盗の計画そのものが間が抜けている。喜劇でありながら夢であり、幻想であって、しかも同時にシリアスな現代の深層を示している。
 四人の俳優がまた怪物揃いである。千葉哲也、塩野谷正幸、若杉宏二、小川輝晃。個性の強い俳優同士の組み合わせが、芝居を弾ませて、この芝居の持つ、日常の現実からかくされた暗部を鮮明にしている。

テアトロ2004年 3月号 「2003年舞台ベストワン」 村井健

 怠惰、凶悪を絵に描いたような世界の『ハイ・ライフ』である。登場するのは四人の薬中ども。薬がなければ夜も日も明けない連中が、その薬を好きなだけ使える金を手にするためにATM強盗をたくらむという話である。
 ところが、この計画がなんともお粗末。だれが見ても失敗するのは明らか。なのにめげない。失敗してはたくらむ。しかもこの連中、暴力・殺し・裏切りも平気の平左だ。そのくせどこか憎めないところもある。つまりは喜劇。それも悪夢のような喜劇だが、これが面白いのはまさにそこのところだ。自分がよければそれでよい。他人の痛みなど知ったことかという自己本位の生き方は、そのまま現代に生きる人間の裏返された本音だろう。それがテンポよく描かれている。
 役者もいい。出演しているのは、千葉哲也、塩野谷正幸、若杉宏二、小川輝晃の四人だが、どの顔も一癖二癖あって、いかにもの感じがするところがご愛嬌だ。流山児祥の演出だが、彼の演出作品の中でもこれは出色のものだろう。書いたのはカナダのリー・マクドゥーガルだ。
 この舞台の、罪の意識などどこにもない人間のハイなライフ・スタイルを見ていると、バーチャルな世界を思わないわけにはいかない。薬によるハイな世界も、ナチズムも、いわば一種のバーチャルな世界だろう。ある時期、ナチズムもまた「ハイ・ライフ」だったのであり、日本もまたそうだった。パックスアメリカーナも例外ではない。つまり、バーチャルな世界は、現実世界とまったく別物とはいえないのだ。むしろ本質において深く結びついているといってもいいものなのである。いや、時にそれが現実そのものとなる。現代は、それがますます複雑に絡み合い、分別不能となりつつある。
 この二つの舞台(もう一つはひょうご舞台芸術『ニュンベルグ裁判』)には共通したものがある。それは、いずれも作品本位に作られているということだ。作品を生かすためのキャスト・スタッフによって舞台が追求されているということである。なぜ舞台をつくるのか、やらずにおれないのか。舞台でなければ伝えられないもの、やるからにはとことんやらずにすまないものがあるからだろう。その、命の「ドクドク」が、この二つの舞台にはあった。

悲劇喜劇2004年3月号 演劇時評 岩佐壮四郎

 キワメツケの暴力劇の一つ。ムショ帰りの三人の男と若いジャンキーによる完全犯罪の企てと仲間割れを描いて三年前に話題になり、昨年一月には青年座も上演したので改めて付け加えるまでもないかもしれませんが、暴力への衝動や、ホモ・ソーシャルな連帯の確認など、我々が内部に隠し、禁圧しているものをそれこそ暴力的に暴きたてる。流山児★事務所の本領を発揮した舞台といえます。
 強いて難点をさがせば、暴力の形象が洗練されてしまっているようにみえることで、いうまでもなく暴力は決して洗練されえないもの、過剰なもので、そこに表現の困難もあるはずです。この劇団、幕前と幕後に流山児による挨拶がアナウンスで流されるのが恒例ですが、今回は「流山児祥演出200本記念公演」ということで、カーテンコールに黒いタキシードの彼が登場、畏まって挨拶しました。役者の誰よりも、彼自身が暴力的な雰囲気を漂わせているのが、印象的でした。

噂の真相2004年4月号 「小劇場情況'04」 江森盛夫

 初演は01年だが流山児が迷わず200本記念の演目にしただけのことがある極上の舞台だった。圧倒的な燃焼度で昨年のベストワンだ。救いようがない4人のジャンキーが最後の一山を目論むが、仲間内のイザコザで失敗。この顛末の話だが、麻薬まみれの彼らの生きざまの活写が真骨頂で、地道な暮らしなど一瞬でも考えないジャンキーたちの恍惚の別天地は、長い一生を苦労を重ねて生きる我々をあざ笑っているようだ。役者たちも何しろ芝居も一種の麻薬だからノリが違うハイ・プレイ。塩野谷、千葉がリードするが出色は若杉。積年の精進が実って優しげでチャーミングなジャンキー像を創り上げた。見果てぬ夢を追う演劇ジャンキー流山児の魂が乗り移った200本目の舞台評で23年続いたこのコラムを終えるのも仕合わせか。


 

テアトロ 2001年5月号 結城雅秀

 流山児★事務所による『ハイ・ライフ』。この直前に取り上げた作品と同様、「カナダ演劇祭2001」参加作品。昨年は『狂人教育』でヴィクトリア演劇祭2000でグランプリを受賞し、カナダとの縁が深い流山児祥の演出である。作者は役者でもあるカナダのリー・マクドゥーガル。この作品は1996年、巡業先の安宿での体験を基に書かれた彼の処女作であり、英語圏で広く公演されている。登場人物は現代カナダに生きる四人の男達。彼らの生き方はならず者ではあるが、自由で、かつエネルギッシュだ。現代社会において、規制を感じつつ順応主義として生きる人間にとっては、彼らの生き方は痛快である。懲りない生活を続ける自由奔放でジャンキーな、つまりゴミのような人生を闊達に描く舞台となった。
 この四人のうち指導的な役割を果たしているのがディックであり、麻薬を材料にしながらならず者達を引き付け、集団を組んで、銀行強盗などの稼ぎをしている。ディックは、バグの出所にあたり、他の二人を巻き込んで、知能的な銀行強盗を企画する。仲間のうちの一人は他人のキャッシュ・カードを失敬して現金を引き出している肝臓病のドニーと女にもてるタイプで美形のビリー。この四人のうち、ビリーだけが刑務所にいた経験をもたない。仲間割れもあるが、ディックは何とか彼らの間を取り持ち、「完全犯罪」と考えられる企画を実行に移す。成功するかに見えたところで、バグがビリーを殺してしまうことから、この罪をドニーに着せて再び入獄させる。数ヶ月後、ディックは懲りることもなくバグを次の企画に引きこもうとしているところで芝居が終わる。
 最初の場面でバグの回想が聞き取り難かったが、間もなくいつものパワーを取り戻し、粗暴なエネルギーの雰囲気を遺憾なく発揮した。ディックは全体を通じて、乱暴な中にも企画を考え出す知的な雰囲気と巧妙なチーム・ワークを配慮する周到さを演じた。ドニーは肉体的な弱々しさと精神の優しさを表現し、ビリーは女に言い寄る技術を好演した。中でもビリーが、ドニーに迫る場面、それに、モノローグで銀行員に話し掛ける場面が圧巻である。
 加藤ちかによる装置は単純なもので、役者の持ち味を引き出している。刑務所を象徴する鉄格子が芝居の冒頭で天井のように上昇し、それが少し降下して待機中の車内の雰囲気を出すところや、舞台の一部が上昇と下降を繰り返して、麻薬の効果を出している箇所が印象的だ。それにディックのもつ映画愛好家としての性格も効果的に使われている。(3月10日、両国・シアターX=カイ)

千年紀文学 2001年  小畑精和

 「ハイ・ライフ」は、酒とドラッグに溺れる四人の若者が銀行強盗に失敗するというお定まりのストーリーながら、個性豊かな四人が繰り広げる「悲しいまでにコッケイな」ドラマが観客を魅了する。舞台はボクシングのリングのように四角で観客席が四方を取り囲んでいる。一番奥の席は舞台として使われることがあるので、実際は三方に観客が座っている。こうした舞台構成は、役者が「リング」にあがると、もがき闘う姿が強調され、そこから降りると日常空間に戻ったような印象を与える。こうして、現実世界では目を背けられるに違いない低俗な若者たちのパフォーマンスが異空間で繰り広げられることにより、鑑賞の対象となり、その意味が新たに問われるようになるのである。
 日常化された言語活動を再活性化させ、言語と現実世界の関係を問い直すのが文学であるならば、演劇はパフォーマンスを「見る」意味を教えてくれる。

テアトロ 2001年8月号「2001年上半期舞台ベスト・ワン」 扇田昭彦

 新しい翻訳劇では、「カナダ現代演劇祭2001」の一環としてシアターxで上演された流山児★事務所公演『ハイ・ライフ』が出色の出来栄えだった。銀行強盗をもくろむ薬物中毒の男たちを描くこっけいさで無残な物語だ。塩野谷正幸、山本亨らの演技には役柄にぴったりの魅力的なリアリティがあり、流山児の演出も洗練されていた。

テアトロ 2002年3月号「2001年舞台ベスト・ワン」 みなもとごろう

 「ハイ・ライフ」は、網のようなと言うか鉄格子のようなというか、そうした無機質に人間を囲ったり取りこめたりするパネルを使った装置が具象性と抽象性とを兼ね備えた、一種の抽象性を持っていて、強く印象的だった。麻薬中毒の男たちが銀行強盗を計画して、結局失敗する話である。麻薬と言い、銀行強盗と言い、彼ら若者から言えば雁字搦めの管理社会への反抗ということになるのだが、銀行強盗はほかならぬ細心の注意、すなわち別の意味で究極の管理社会を形成しなければ、成功しない。つまり、彼らが個人として希求するより良い生活(台本を検討していないのでよくは分からないがハイライフというタイトルは、麻薬づけのハイな状態と高級なという両義語なのであろう)は、その個としてのモチーフの強さゆえに逆に失敗を内包している。ハイライフがハイライフを否定しているのだ。と同時に、この舞台ではスカトロジックな現象が失敗の一因としてが現れるが、恐らくここにもっとも素朴な人間のいつわることの出来ない生理が現れているとも言えるのである。また、鉄格子は観る方によって内側と外側の意味が逆転するのだ。
 わたしとしては、世紀と言うより千年紀をまたぐ意識を、こうした舞台に見たいのである。どれを、ベストワンにしてもよいのだが、「ペンテコスト」と「十字軍」に見られる、どこか知的な装いを全く感じさせない「ハイライフ」の流露感を買いたい。