流山児のページ

 IT'S SHOW TIME !!


1ヶ月間の海外ツアー報告日記

 

『盟三五大切』(原作/鶴屋南北 脚本/山元清多 音楽/本田実)の中国、イラン、ロシア、ベラルーシの4カ国ワールド・ツアーは今までになく実にスリリングな旅だった。
様々な事件が起こり、そして《伝説への旅》となった1ヶ月の私たちの演劇の冒険メモ。

以下日記風に4回にわたってつづってみた。

 第1回   北京篇


1月18日(火)

無事に2年ぶりの北京北劇場入り。
16日までベニサン・ピットで南北作品連続上演の公演中だったから劇団員は片付け、荷造りと全員ヘロヘロ。申し訳ない強行軍。
抗日戦争勝利60年の年、わが国にとって終戦60年の節目の重要で微妙な年。北京での反日感情の高まりはすさまじく、チケットの不買運動まで起こっていて渡航前日、初日チケット70枚のキャンセル。釣魚台の帰属問題で大規模なデモが始まり、この問題が新聞一面を飾った途端の騒動である。劇団員一同暗然。中国向けというより「海外向け」に次の世代に「平和のメッセージ」を伝えるために「子殺し」はやめた。中国では腹切り、と小万の生首は「南京大虐殺」をイメージするということで当然カット。

 

1月19日(水)

粛々と場当たり。2006年、新国立劇場で中国の劇作家と仕事をするらしく北京に滞在中の新国立劇場の芸術監督栗山民也氏と話劇人社の菱沼事務局長が陣中見舞い。
劇場に「検閲官が急遽来る」との知らせあり。いつも頼んでいるイーラン〔山崎理恵子:香港の女優でこまつ座の「父と暮らせば」の翻訳家〕の翻訳台本を劇場側の「検閲台本」に変える。これが結果的にところどころ爆笑を買うこととなる。海外公演は字幕の翻訳の力に負うところが大。

 

1月20日(木)
2時、ゲネプロ。人民日報、新華社、CCTV〔中央電視台〕の連中が「この芝居なら大丈夫」と保証してくれる。今時期、日本から来る芝居はどんな作品も必ず「靖国問題」と関連づけ歴史認識が少ないと非難される。検閲は無事通過。今回のツアーで「検閲」がないのはロシアだけ。午後7時半、心配していたが400の席はほぼ満員。ついにワールド・ツアー初日の幕が開く。

3年前〔2002年10月〕の『人形の家』伝説は生きていた。「劇終」のエンド・タイトルに大拍手。全員に花束。本当に来てヨカッタと劇団員一同。海外公演初参加の横須賀智美を始めとする6人は大感激。

終演後、各紙、誌のインタビュー10社におよぶ。10時からインド料理屋で国際交流基金北京事務所の主催の歓迎パーティ。今回は本当にイロイロお世話になっている。基金の栗山さんには到着から北京を離れるまで色々お世話になる。近いうちに、北京事務所の企画で私と少年王者舘の天野天街の演出で日中のコラボレーションをやろうと決める。

1月21日(金)

2日目。「北京晩報」、「新京報」に劇評が載る。「抱腹絶倒の果て、身も凍る」、「シェイクスピア歌舞伎」と絶賛である。この日は劇場から、チケット「30枚しか売れてない」と言われていたが、当日券も出て200人を超す入りである。「新劇本」「VISION」といった雑誌に流山児★事務所の特集が出ることが決まる。それにしても、上演中予想もつかないところで爆笑が起こるのでよくよく聞いてみると「誤訳」があるらしい。イーランは初日が開くと香港に公演のため帰ったので、通訳の滝沢あかりさん〔中央戯劇学院舞台美術科の学生〕に校正をしてもらい「変な笑い」は納まる。
 


1月22日(土)

マチネ・ソワレの2回。この日も当日券が出て300人超す。凄い「好〔ハオ!〕コールである。マチネとソワレの間に7人の演劇評論家とアフター・トーク。本当によく日本の現代演劇について精通している。4年前に亡くなった友人の中国演劇研究者明星大學教授杉山太郎氏の知り合いの西華大学のジャ・ヲォ教授が今度来るときは2ヶ月前から日本演劇サポート委員会を作り流山児★事務所のキャンぺーンをやると言い出した。有難い事である。1907年『茶花女(椿姫)』を中国の学生劇団が東京で上演してからの100年近くの日中演劇の交流の歴史について話す。
西洋演劇が主にリアリズム中心だとすればアジアの演劇は役者の演劇である。最小限の装置と照明。台詞より動き。演技の様式性、伝統性。ブレヒトを千田是也と共に中国では黄佐悟が紹介した事実。「中国演劇界との交流」をきっちり次の世代につなげなければ。そのためにも歴史意識をもって《現在》を捉えられる次代の演劇人が必要なことを痛感する。


1月23日(日)

万里の長城見学に初参加組が朝早く向かう。私は1991年の日中演劇人会議以来北京は4回目だから長城には行かず、王府井〔ワンフーチン〕の散策。2008年の北京オリンピックに向けて街が急激に変貌している。バザールは跡形も無くなり、大通りのトイレは全て水洗化。

北劇場は中央戯劇学院の横にある下町の「大学街」だがここの風景もどんどん変わっていくことだろう。私が1964年の東京オリンピックで体験したごとく・・。汲み取りの公衆便所と公衆浴場が中国の庶民の交流の場であったのに、残念でならない。13年前は自転車だらけだったのに、今はものすごい自動車の量である。


タクシーに乗って少し早く劇場入りすると、CCTVの「人物〜PEAPLE〜」のスタッフ・クルーが私を待ち構えていた。人気インタビュー番組とのこと。生い立ちから2度の離婚のことまであらゆることを聞いてくる。私が中国との演劇交流にこだわるのは57歳で死んだ父の定年後の夢が「日中友好」の仕事だったこと。それは、父が若い頃、日中戦争で中国への侵略戦争に参加したことへの懺悔から、といったエピソードや2年前86歳で死んだギャンブル狂いの母との「5年間の楽しい介護の想い出」などさまざまなことを根掘り葉掘り聞かれ、3時間以上のインタビュー。おまけに本番中の楽屋にもカメラが入ってくる。


「世界の有名人」を扱う30分インタビュー人気番組で、東京に帰ったらガキのころの写真から演出作品のビデオも何本か送らねばならない。おまけに東京での日常も!中国の著名な演出家、林兆華、孟京輝に次ぐ3人目、勿論日本人では初めて。3月に放映される。また、『狂恋武士』は3月DVD発売も決定。これまた林兆華に次ぐ。

夜7時半。北京公演千秋楽400人満員。カーテン・コール。花束贈呈。ユエン・ホンは満員のお客に「10月、再び流山児★事務所が北京に帰ってくる」とアナウンス、万雷の大拍手。

11時からいつもの安酒屋で打ち上げ。ユエン・ホンは乾杯の連続でベロベロ、「日本と中国の小劇場の本格的な交流はこれからです」と力説。本当にいいヤツである。

今秋、日中関係がこれ以上悪化しなければ、何とか劇団の3本の「レパートリー・シアター上演」を是非やりたいと本心で思っている。しかも、これも歴史的なことだ。

が、いまのような「反日感情」の最中では今秋の公演は無理かもしれない?というのが正直な実感。抗日戦争勝利60年、終戦60年の「春」に中国でとにかくヤレテヨカッタ、と真底思う。これからも長い付き合いになるのだから、あせらずじっくり、だ。

それにしても安直な言動ののおかげでどれだけアジアで日本人が嫌われているか!ふざけるな!コイズミとつくづく想う。   
  

 

第2回 風雲のテヘラン篇

1月26日(水)

午前2時過ぎモスクワ経由でイランの首都テヘラン入り。はじめての地。
2年前、ITI(国際演劇協会)日本センターに依頼されて公演の話が進みやっと実現した。テヘランで行われるイラン劇芸術センターが主催する第23回ファジル国際演劇祭への日本初参加である。通訳の鈴木卓馬君が出迎え。18歳でテヘランに単身乗り込み、現在テヘラン大学に通う3年生。22歳の好青年。私の息子の龍馬と同世代、いや頼もしい限りの青年である。

Ferdossi Grand Hotelにチェック・イン。
カナダ、イギリス、ドイツ、フランス、ポーランドなど12カ国が参加するカイロの国際実験演劇祭と並ぶ中東最大の演劇祭。昨年の東京国際芸術祭に来ていたクェート+イギリスの「アル・ハムレット」のチームも来ている。2001年の9月。私たちはエジプトのカイロ国際実験演劇祭に『人形の家』〔寺山修司原作「狂人教育」〕で参加したがその時、感激したポーランドの『Carmen Funebre』も4年前と同じメンバーで来ている。ホテルに着くやお互いの再会を喜び合う。仕込みは真夜中らしく深夜なのにロビーには何人も打ち合わせしている。

仮眠をとって、お昼過ぎから日本大使館主催の歓迎レセプション。27日・28日はなぜか同時に大使館主催の能の公演がある。NPO法人SENSEの橋本さんら7人。中東4カ国を回るそう。全権大使の堂道氏がペルシャ文化の素晴らしさについて話してくれる。イランの人がいかに日本が好きか、悪の枢軸国なんかじゃない!などなど。女流美術家・劇作家と日本のアートについて意見交換。27日まで現代美術館で旧知のヒグマ春夫ら5人の「現代美術の日本展」を開催中とのこと、ぜひ見ろと勧められる。同時開催はアッバス・キアロスタミ監督の写真展。見たいが仕込み、ゲネプロ、残念。レセプションに監督も招待したそうだが急用で来られないとのこと!超残念。大使公邸の庭で記念撮影。カナダのエドモントンの総領事館以来のレセプションであった。久しぶりの日本料理にみんな狂喜する。皆ここへ来て、年末からの疲労のピークを迎えていた。が、思いのほか穏やかで、やさしい街の風に癒されつつもある。

3時過ぎVahdat Hall入り。荷物を搬入。セット組み立て。6時から「Art and Worship Prize」の受賞式。仕込みは式が終わり次第と相成る。Vahdat Hallはオペラ劇場で4階席まである1350人収容の大劇場。が、客席は近い。ヨーロッパ風建築のイイ劇場。夜の9時過ぎから仕込み開始。劇場スタッフ40名が夜明けまで私たちの仕込みをサポートしてくれるという。お互いに拙い英語を交えながらの自己紹介が始まる。当初キャパ400のCity Hallを予定していたが、直前に急遽オペラ劇場に変わった。演劇祭事務局(イラン劇芸術センター)に照明の仕込み図は送っていたのに予想どおり?劇場スタッフには届いていない。おまけに調光卓も1チャンネルのみ。こりゃ照明は大変。それでも「35年来の友」山上、ROMIのコンビが午前4時過ぎまで粘り、英語でのコミュニケーションで作り上げる。いつものことだが、ツアーでは様々なトラブルがある。とりわけ照明が一番大変である。実際のステージを見た後で掌を返したように、ころっと態度が変わるのは毎回のこと。しかし、本番前に、何処まで分かり合えるか、何処まで理想に近いステージを立ち上げられるかは、こういった前準備が出来ない公演ではとりわけ重要になる。

それにしても、6年間で8回も海外に行くとどんなトラブルも乗り越えられるチームに育っていくものだ。3年前など台風で飛行機が飛ばなくて成田でごろ寝もあったし、9・11の時はマニラで飛行機の中に5時間も閉じ込められた。モスクワではホテルの前で警官にマシンガンを向けられ全員ホールド・アップ。劇団員の一人はチェチェン人狩りで警官に連行されたりカイロではラクダに乗せられ砂漠に連れさらわれたりのまさに「冒険の旅」の連続。

1月27日(木)

時差ボケと睡眠不足の極地で「嵐のような1日」が始まった。

朝食後、ホテルを出て小屋入り。急遽、イラン文化指導省の「検閲」が入った。2年前から進めていた企画だから当然公演ビデオもあらすじも解説も送って上演許可が下りている。イスラム文化の戒律・風習に沿うように女優は頭にチャドル〔スカーフ〕を巻き、肌の露出は極力抑えるという私たちなりの「対策」はとってきた。が・・。 

午後2時のゲネプロを見てもらうという事になりスタンバイ。が、待てど暮らせども検閲官殿は来たらず。「イラン時間」と鈴木君。1時間45分遅れで6人の文化指導省の役人と演劇祭の実行委員の前でゲネプロ。

予想もしない「事件」が起きた。指導省側と実行委員側がもめている。「このままの形では公演出来ない」「字幕はすべて無し」「男女の触れ合いは一切ダメ、」「ダンスの男女のリフト等もってのほか」。「ゲイシャ」を売春婦と捉えられたのがマズかった。アーティストとしておくべきだった?そして「酒」も。190年前に書かれた日本の歌舞伎の世界の話なんだと何度説明してもダメ。

この作品は「金」に狂わされる男女の愛のドラマである。「大義」という男性社会を笑いのめすために女優を主人公にすえた人間の「愛憎のドラマ」である。が、「女優同士」でも客はそう思うからタッチはダメ!なんじゃ、そりゃ?である。サムライがゲイシャを買い、おまけに騙されて人を殺す芝居などもっての外!が文化指導省の論理。演劇祭も文化指導省の管轄である。観客に一切のストーリーを「知らせず」にやれという命令。
   

劇団員全員で話し合う。「愛の物語を伝えてはいけない」と言われ、この作品を上演できるのか?!愛をテーマにここまで芝居を立ち上げてきた。愛を伝えずに上演するのは不可能だ。公演を中止にすべきだ、と言う意見に一時傾く。これは文化や慣習の違いによる問題ではない、と。何処の世界に愛を伝えぬ芝居があるか!この条件を飲む事が正しい選択か?演劇祭側はそれでもやってほしいと私たちに訴える。実行委員会も建前で言うべき事は言ったものの、実際上演を中止にすることは念頭に無い。表には観客が待っている。30000リアルのチケット代払って、大勢の観客が入り口で開場を待っている。とにかく「心をこめて」やろうということに。

この国の演劇人たちも、この制限〔抑圧〕の中で「愛」の表現活動をやっているのだ、俺たちに出来ないことはない。実行委員のT氏は黒のストッキングを買ってきた。女優は既にズボンをはいている。これは男優達のために用意されたのもだった。ジョートーやんけ、全部隠してやりやしょう。
  

トップ・シーンのリフトは殺陣に変え、男女のタッチすべて無し!ベッド・シーン、キス・シーン無し!女性のダンス・シーンも無し!開演まで15分。出来るのは簡単な打ち合わせのみ。1350人を超える観客が芝居を見たくて待っている。すぐ客入れ。

1350人の大ホールがあっという間に埋まり4階席までギッシリ超満員。寺山修司と天井桟敷以来「33年ぶり」の日本の現代演劇の公演である。

開演時間だ、やるしかない。初の海外公演1990年の『流山児マクベス』ソウル公演を思い出した。あの時は、簡単な字幕があったか!ソウルの1200人の観客は大興奮したものだ。そして2日間3ステージ3500人という人々が観劇し、今や韓国演劇界の「伝説」となって若い演劇人たちに語られている。7時30分開演。拍手が起こる、暗転。爆撃音が止み赤ん坊の泣き声が聞こえ、坊主があらわれ「戦場」に残された乳飲み子を抱きかかえると劇場は静まりかえる。男たちの死体の山。念仏を唱える女たち。ボレロが鳴り響き「芝居」が始まる、ペアなのに抱き合えず、離れて正面に。殺陣。芝居は続く。全く言葉が判らなくてもイランの観客も笑うトコロでは中国の観客と同様に笑う。「物語」は判らなくとも人は「物語を伝えようとする人間」を見て感動するのだ。満員の客席の後ろで立ち見していたがこんなに必死な役者たちを見るのは初めて、ほとんど滑稽なまでにジェスチャーたっぷり、真剣そのもの。それなのに私だけがトチリまくり。スマン。それにしても歌舞伎台本はいい、正面きって自分のエネルギー全てを使って客の「魂」に触れる表現ができる。

だが、全く言葉がわからないままの1時間40分。立ち見状態はきついか、50人位が途中で帰ったとのこと。解説も何も一切無し、なのだから当然か。

9時10分終演。スタンディング・オべーション。4階まで総立ち。35年芝居をやっているがこんなにスリリングで感動的な「事件」はなかった。涙がでた。つくづく57年生きていて良かったと思った。全員感動している。イスラムの国だから酒は飲めないので全員ジュースで乾杯。

開演前に共同通信のテヘラン支局の宇田川さんに電話して取材を頼んでおいた。途中から劇を見てくれて、今回の「事件」について劇場の外で話す。「流山児★事務所テヘラン公演で困惑」のニュースがその日のうちに配信された。そのせいか?翌日簡単なあらすじのチラシを「500枚」だけは配っていい!事となり、また各シーンの解説と歌詞の字幕OK!となる。公演の評判が手伝ってのことであろう。最後は観客に救われた。

午後10時過ぎ、ポーランドのシアター・グループTravel Agencyの『Carmen Funebre』を4年ぶりに見る。彼らもラブシーンも男女のタッチ無しで頑張っていた。詩的な美しさを持つグロトフスキー、カントールの流をくむPowel Szkotakという1965年生まれの演出家の野外劇作品。勿論台詞は一切なし。それにしてもメンバーが一人も変ってない。1999年の初演から15年か!?『人形の家』も『盟三五大切』もそんな作品に成長する。

1月28日(金)

午前10時よりアフター・トークとプレス・インタビュー。City Hallのカフェ。例によって1時間遅れ。記者たちからも何故字幕が無かったのか、何故解説も一切なしなのかと質問を受ける。聞きたいのはこっちの方である、が。日本の現代演劇についての質問でまず驚いたのは「日本には現代演劇がない」と思っている人が多いこと。「伝統文化が色濃く残りすぎて、文化がまるで進歩していないのではないか?新しい演劇が生み出せない環境にあるのではないか」と言う。この記者は私たちの舞台は見ていなかった。「今日、よく観てください」、と答えるしかない。この街にはこれまで能と狂言しか来ていない。日本にイラクの劇団が来た時、同じような質問をした日本人記者がいた事を思い出す。(「イラクにも演劇はあるんですか、美術館とかあるんですか?」などと質問しやがった。恥ずかしくて全身から汗が出た。)また、これは中国でもよく聞かれたが独立劇団か、国家の劇団か?と言う質問。勿論独立劇団。日本には国立の現代演劇の劇団は無い!と答えると一様に驚く。寺山修司についての質問が飛ぶ。1973年のペルセポリス・シラーズ芸術祭での『ある家族の血の起源』がイランの現代演劇に与えた影響は計り知れないとインタビュアーが語る。この国の日本演劇研究はテラヤマから始まったのだという。テラヤマは「最後の前衛」であり私たちの芝居にも、もっとも影響を与えた演劇人であると答える。演劇の知性と呼ばれるものは西洋の言語でかしないと感じながら、このイスラム原理主義者が支援するこの演劇祭は何だ?今度キチンと見に来ようと想った。アジアの演劇人たちがいかに《現在》の人間状況と向かい合ってるかモット知りたい。

2時からホールの地下にある小劇場でイランの芝居『A hand Has Written Your Name Over The Moon 』を劇団員全員で見る。面白い。人形劇の体裁をとっているが実に良く出来た愛の黙示録的ドラマ。台詞は一切無い。基本的には懐中電灯だけを使い実に繊細な終末ドラマでフェミニズム的な実験劇。そして私たちの演劇以上に実にエロティックな愛のドラマ。 Maryam Moiniと言う1972年生まれの女性の演出家。シラーズ出身、寺山さんの生まれ変わりか?イランの現代演劇は実に高度なレベルを持っている。もっと見たかった。そこにはイスラム的な宗教性などない文字通りの現代劇があるに違いない。ただ命の場を作り人間の奥底にひそむものに触れる「ライブ(生)の伝達」それが舞台芸術である。国も制約もへったくれもない。お得意の「建前」をいとも簡単にスルーしている。

4時小屋入り。卓馬君のガールフレンドのポーランド人の留学生カロラインさんに頼んで作品の解説とあらすじを録音。字幕はシーンの解説。歌、そしてラスト・シーンのみ出すことになる。歌のシーンでは踊りもやることに。制約の中にあっても私たちの「愛の表現」は止める事は出来ない。触れ合わずとも、伝えられる物がある。初日は勢いで乗り切ったが、今日は私たちの演劇をキッチリ伝えねばと思う。客は1350人。今日も超満員。あらすじを載せたパンフレット、限定500枚。ぎりぎり間に合う。

7時15分開演。今日はだれ1人帰らない。途中で実行委員会側がプロジェクターのスイッチを切ろうとした。あとでわかった事だが「芸者」という文字がチェック・ミスで出てしまったらしい!それでも昨日と同じ「台詞には字幕なし」なのだから観客は最大限の想像力で私たちの芝居を見て感じるしかない。私は始めて最後の雪降らしをやった。振らせすぎて殺陣が大変だったと役者たちからブーイング。

  


観客総立ち、スタンディング・オベーション。手拍子になり、鳴り止まない。実行委員会からの花束贈呈でやっと鳴り止む。日本大使館の人たちも日本人会のひとたちも来ている。皆感動している。イランにきて本当に良かった。様々な人たちの協力でイラン公演がやれた。本当にありがとう。

バラシ、セットと衣裳を梱包。バスを待つ間、劇場の暗いロビーで字幕担当の帆足が受付の机の下から大量の『The Love Crazed of Samurai』のチラシの束を発見。まったく開けてない3000枚そのまま!!それもそのはず、チラシには「悪とエロスと笑いに満ちた現代歌舞伎、『盟三五大切』」との宣伝文句が載っている。この国で、これが配布できないだろう事は想像が付く。翻訳したのも、このチラシを作成したのも演劇祭実行委員会であるはず、なのだが・・・。(ベラルーシでは地下鉄構内に貼る宣伝ポスターから文化庁と国際交流基金のロゴマークを抜くように国家からの指示が出たそうである。2000枚の刷り直し?自国の言葉でないものは載せられないというのか!?)

深夜12時からホテルで打ち上げ。ジュースで乾杯。ホテルの事務所の机に大量のパンフレット最終号。表紙は沖田乱。勿論、記事も劇評も一切無し。やはり、イランは想像を超えるところだった。もっと戦略を練るべきだったか?ま、2日間2700人の観客に出会えたことが最大の財産である。私たちはテラヤマのようにイランの観客の「伝説」になったのだ。
  

1月29日(土)

午後5時から閉会式。多くのひとから「昨日、見たぞ」と話しかけられる。今年はコンペティション無し。午後8時、外国の参加チームに芸術栄誉賞の贈呈。オペラ劇場満員の参加演劇人から喝采を浴びる。昨日までこの舞台で芝居していたのか?127人の海外組の参加、35のイランの劇団の参加。野外でもお祭り騒ぎ「また会いましょう」と別れを惜しむ。

1月30日(日)

深夜の移動まで初のOFF。午前10時から2時間ホテルのロビーで共同通信の宇田川さんの取材。「ひと」という欄で今回のイラン公演の顛末について、そして私のインタビュー記事。町を散策。バザール。地下鉄。映画館で映画を見る。『キル・ビル』みたいな女の復讐劇。イラクでは選挙。

1月31日(月)

早朝、モスクワに向かう。あと15日。ツアーも半分終わりである。それにしても苛酷だがたのしい旅である。
 

第3回雪のモスクワ篇

1月31日

朝。雪のモスクワ。『人形の家』以来2回目のモスクワ公演。ストラスノイ演劇センター入り。1年半前に出来たロシア演劇人同盟〔名優カリヤーギンが議長を務める組織〕の新劇場。今回のモスクワ公演は演劇評論家の村井健氏の仲介で難航の末ついに実現した公演でもある。 ストラスノイ劇場はプーシキンスカャとチェーホフスカャに位置する渋谷パルコ劇場に似たファッションビルにあるプロデュース劇場。
道具を搬入しウクライナ・ホテルにチェック・イン。

 

仮眠を取って夜7時からA・カザンツェフとM・ローシンのドラマツルギー演劇センターのウラジミールとオレグ・プレスニャコフ兄弟作、オリガ・スヴォーチナ演出の『床の覆い』という人気芝居をストラスノイで観る。あるアパートに引っ越した兄弟が床の覆いをはがすと死体があり大家や奇妙な隣人やら現れ、てんやわんやの大騒ぎの80年代小劇場演劇を思わせる芝居。が、たぶん相当エロチックなブラック・コメディーらしい?とにかく客がよく笑う。1幕はアレヨアレヨで台詞は判らないが凄いテンポで面白い。2幕になると普通の芝居で「どこがアヴァンギャルド?」という感じ。
それにしても凄い前宣伝である。この劇場はプーシキン総支配人をヘッドにしたプロデュース劇場で宣伝力は凄い。10誌紙以上の雑誌、新聞に前宣伝が載っている。ただ契約が遅かったので2週間しか宣伝期間が無かったとのこと。ホテルのロビーにある「ぴあ」みたいな情報誌「グジェ〔何処へ〕」の演劇欄のトップに伊藤弘子の顔写真「ネオ・カブキ」とある。

2月1日(火)

凄い雪の中バスで午前9時小屋入り。仕込み。取材、ロシアTV。小屋の表には巨大な弘子の顔の宣伝幕。380席で2階席もある。袖と奥行きが無い。殺陣と動きを変えねばならない。「検閲」が無いので東京バージョンに戻す。ロシア語しかスタッフがしゃべれないので通訳の正村さんは大変。ユーゴザバード劇団の野崎美子さんが陣中見舞い、ナレーションの録音を頼み込む。東演の女優でロシアに8年。シアター・ガイド誌でロシア演劇の情報を知らせている人でもある。 安いカフェ〔ロシアでは居酒屋のこと〕でウォッカを半年ぶりにたらふく飲む。イランで飲めなかったから、久しぶりの酒にクラクラ。ロシア演劇の現在について話す。

2月2日(水)

9時小屋入り。殺陣、動きのチェック。2時からゲネプロ。開演前に「文化チャンネル」「首都TV」のインタビュー。歌舞伎をなぜやるのか?なぜ女優を使っての歌舞伎なのか?例によって、寺山修司と鈴木忠志の影響について聞かれる。ラジオ「ロシアの声」。300人近くの入り、1階席は満員。よく笑う。カーテン・コールをやらなかったのが不評を買ったが、大興奮の客席。ただ動きがいま一つシャープでない。リノリウムが惹かれていない床は兎に角良くすべる。足袋では踏ん張りが利かない。疲労もあるがとにかく稽古するしかない。

 

 

2月3日(木)

朝から「文化チャンネル」で、昨日の舞台の模様が放送される。4回ほどの様々な放送がなされたようだが、見れたのはこれだけ。我ながらかっこいい舞台だ。

お昼過ぎから、3時間稽古。久しぶりに皆ヘロヘロになる。これでいい。『人形の家』のカナダツアーの時は朝から野原で1日中稽古したものだ。『三五』は初の海外、稽古でより高度な技術的進化は目指さねば。

2日目。クチコミのせいか、当日券が伸び2階席も入りおよそ350人の入り。昨日より反応が早い、時々入れる沖田乱のロシア語に大拍手。カーテン・コールも3回やる。観客総立ち。
 ホテルで、役者の甲津拓平の35歳の誕生パーティーを全員で祝う。拓平は入団以来6年間毎年海外へ行っている劇団の中心メンバーまた同期の小林七緒やイワヲそして女優のメイン6人そして客演の常連、沖田乱も海外6回目。拓平は前回のロシア公演ではチェチェン人に疑われて警察に連れていかれる体験をしている。前にも書いたがいろんな事件に海外で遭遇している。2年前のトロントではSARS騒ぎの始まり、おまけにイラク開戦で10万人の反戦デモの中。この6年間様々な世界の大事件を面白いように「海外で体験」し「日本を見て」いる。今回はイラクの選挙。

 

2月4日(金)

モスクワ公演千秋楽。3時小屋入り。5時半まで稽古。今日は完売。補助席が出て420人超満員。評判を聞いて長蛇の列。正村さんに面白い感想を聞く。庶民は熱狂的に受け入れているが、いわゆるインテリや演劇評論家の一部はこういう芝居は認められない、とのこと。歌舞伎ではないという理由だ。現代劇をやっているのだ。大衆演劇を目指しているのだ。いわゆる歌舞伎を求めてくる人のニーズとあわないのは当たり前か。

とにかくよく笑う。沖田乱のロシア語には大爆笑、大拍手。ロシアの観客はすこしでも隙間があったら舞台に参加したいのだ、そういった意味では中国の観客に似ている。熱狂的な拍手の中、延々5回のカーテン・コール。終演後、ロビーのカフェでプーシキン支配人主催のお別れパーティー。モスクワの日本大使館に国際交流基金から出向している日下部氏とロシア演劇との交流について話し合う。日下部さんが劇評の載った「ヴレーミャ・ノヴォスチェイ」紙を翻訳して持ってきてくれた。「歌舞伎の原点に戻り女優を使い、もともと大衆演劇であった歌舞伎を復活させた。」「世の中は変わっていくが、変わるのは人の心ではなく、社会制度なのだ」には笑った。プーシキン氏から2007年ヤルタで行われるチェーホフ国際演劇祭へ招待される。

私が「45歳以上の大人」を集めてやっている劇団「楽塾」のカラオケ・チェーホフ劇を見せたらロシア人は驚くだろうな?もっていくか?
2回目のモスクワ公演。当初マールイ劇場で上演する予定で去年の6月に下見に行って打ち合わせまでやったのにその後さまざまな経緯でストラスノイ劇場に最終的に決まったのは3ヶ月前。前回の『人形の家』の時はカイロの国際実験演劇祭の時、タガンカ劇場の総支配人デュパック氏にタガンカでの公演を依頼されたがその後本当にイロイロあってペロフスコイ劇場という小劇場になった。ギリギリまで決まらないのがロシア。

日下部さんに「もう1回かならずやってくれ」と頼まれる。3回やった日本の劇団は無いとの事。「考えます。」と答える。

 

第4回  激動のミンスク篇

2月5日(土)

荷物を積み込みベラルーシへと向かう。北朝鮮と並ぶ、世界の2大独裁国家「不思議の国」ベラルーシ。アメリカ「帝国」が最も敵視する6カ国、ベラルーシ、ビルマ、キューバ、イラン、ジンバブエ、北朝鮮の人権無視の強権国家(ライス国務長官のコメントが英字新聞ベラルーシ・トゥデイに載っている)の1番目の国。日本演劇未踏の地での初公演。人口170万人のミンスク。美しい町並みである。22人しか日本人はいないからこの1週間は日本人が倍増。私たちは1週間本当にジロジロと道行く人たちに物珍しげに見つめられた。

2年前の『人形の家』ロシア公演のとき早稲田大学でロシア演劇を教えているナターリャ・イワノヴァ先生からベラルーシでの公演を依頼されたのがきっかけ。去年の7月、自費で4人のメンバーとミンスクに1週間滞在し、日本の現代演劇についてのレクチャー、シンポジウム、ワークショップをやった。受け入れ先は国立演劇アカデミーゴーリキー記念国立ロシアドラマ劇場であった。
芸術監督はボリス・ルツェンコ氏。テキストには北村想の『寿歌』を使った。チェルノブイリの原発事故の放射線被害で25万人が被爆した国。『寿歌』は核戦争後の世界を描く名作、是非やってみたかった。劇場の外で役者たちに、リヤカーを引かせて発表会をやり大好評だった。
またこの国は第二次世界大戦で人口の3分の2がナチスによって殺されたジェノサイド〔大虐殺〕の国。ほとんどの家屋はナチスによって破壊し尽くされ古い建築物は数えるほどしか残っていない。四方を他国に囲まれた小国のこの国は大国の影響の下に常におかれていた。しかし、この国にも演劇は「在る」。独裁国家の大変な抑圧のもとで演劇人たちは表現活動を続けている。

昨年7月の1週間の滞在で知り合った古澤晃さんが今回の公演の通訳兼コーディネーター。ベラルーシ国立大学の日本語教師で5年間ベラルーシに住む31歳のロシアやベラルーシの現代劇を翻訳している翻訳家でもある。ちなみに彼の月給は120ドル!!国立音楽大学で音楽理論を勉強、日ソ学院でロシア語を学び、ウズベキスタンからベラルーシへと冒険をつづけているという今時珍しい硬派の青年。イランの鈴木卓馬君といい今度のツアーでは若者たちに大変な苦労をかけることになった。古澤さんの教え子たち4人が通訳のボランティア。全員、真面目で本当に良く頭の回る最高のパートナーたち。日本語堪能!!

ここもロシアと同じで当初は国立アカデミーロシアドラマ劇場でやることになっていたのだが、都合で国立ヤンカ・クパーラ劇場に変更、制作会社が請け負うことになった。ディープ・パープルを呼んだところで入場料はバカ高10ドルから40ドル!![月給が150ドル平均!!(つまり平均月給の3分の1!!)
TVスポットや駅張りのポスターなど、一般庶民は手が出ない。それでも「即日完売」との事。日本から初のネオ「歌舞伎」の劇団の公演(という売り!!)というので凄い前評判。
ルツェンコ氏いわく「本当に、本物の日本人が来るのか?」と何本も電話で問合せが来たとの事!金持ちたちが買ってしまい演劇関係者にはチケットはまるで回ってないらしい。困った事態である。

宿泊先は「10月ホテル」1917年のロシア革命の10月からとったもの。ヤンカ・クパーラ劇場はミンスクでもっとも有名なヨーロッパ風劇場で1867年に建てられた3階席まである523人定員。ナチスはこの劇場だけ破壊しなかったらしい。 古澤さんと相談の上、学生やビンボーな役者や券が手に入らなかった演劇関係者のために、初日の9日3時の「無料の追加公演」をやることを急遽決定。本当に申し訳ない。

2月6日(日)

7時からロシアドラマ劇場でプーシキンの詩をルツェンコ氏が構成し演出したロック・オペラ『アンジェロとその仲間』を見る。ペストの時代の男と女の愛の物語。去年の『寿歌』のメンバーが主要キャストを務めている。終演後、半年振りの再会を喜ぶ。半年前に「今度、俺が来るまで何か芝居を作って見せろ!」とジョーダンで約束した。完全には出来ていないが『三人姉妹』を4人の男だけで、「歌舞伎スタイル」で上演したいのだが、稽古を見てサジェスチョンしてくれ!!との事。うれしい限りだ。11日、一緒にワークショップをしようという事になった。それじゃ、芸術大学の生徒も、芸術アカデミーの生徒も、ということになって、面白いそれじゃ、ロシア劇場全体をつかって60人近くの役者たちとの大ワークショップ!!そして私は演劇人とのシンポジウムと相成った。又、今回のセットや衣裳、小道具もミンスクの役者たちに一部プレゼントすることに決める。

パーティーが終わり帰ることになり、モスクワもそうだったがいわゆるスキンヘッド集団の東洋人狩りがミンスクでも起こっているそうで役者たちと通訳ボランテェイアがホテルまで「ガード」してくれる。悲しいが、感謝。バレエ、ヤンカ・クパーラの劇を見た連中もミンスクの役者の演技のレベルの高さは一様に褒めている。

  

2月7日(月)

朝早くビテブスク国立劇場の『砂の女』を見るために車で4時間かけてビテブスクまで遠出。時速120キロでノンストップ!途中雪の道に女の人が時々立っている。聞いてみると売春婦。すごい貧富の差。賄賂や腐敗がまかりとおり、反対勢力は全て弾圧され政治犯刑務所入り。多くのジャーナリストが殺されている国。
ビテブスクはロシア国境に近い美しい町。画家マルク・シャガールが生まれた街として知られている。安部公房原作、イーゴリ・バヤーリンツェフ脚本・演出の『砂の女』は1年半ヒットしている作品。1時間半ほどの小品。縄とドンゴロスをつかった砂丘に日本家屋を思わせるセット?まあ、ベトナムにしかみえないが。衣裳も着物をイメージしているんだろうが、コレマタ中国?まあ、良く出来てる方か。役者は上手い。最後もとりあえず女は妊娠して行灯までかざしてハッピイエンド。ラストに案の定、「次の仁木順平」(このベラルーシ語しかわからなかった)が現れてドラマは終わる。安部公房と村上春樹がなぜかロシアでは受けている。40代以上は安部、20代以上が春樹。慌しく、シャガールの生家を見る。TVのクルーが劇場からずーと追いかけてくる。ミニ・インタビュー。6時過ぎミンスクへ4時間かけてUターン。
 

2月8日(火)

朝9時から仕込み。 この劇場、袖がないが奥行きがあり、声のとおりも良い。ただ古い、全てが。古澤さんが明日のプレビュー満員になるでしょうと伝えに来た。皆見たがっているとの事。良かった。『三人姉妹』の連中も本番までの間仕込みと場当たりの見学(レパートリー・シアターだから毎日本番がある)いろんな質問を劇団員に英語でしている。いいコミュニケーションである。みんな面白がっている。 

照明は史上最大の大変さ。使える器材はほとんど無い。古い燈体だらけでやたら暗い。山上が頭抱えている。吊る場所も無ければ、泣き言いってる暇も無い。とにかく、やるしかない!レパートリー・シアターの劇場ゆえ、あまり弄られたくないのは当然であるが、なかなか劇場スタッフの腰が上がらない。時間が無くなり仕込みは深夜にまで及ぶ。我々の熱意に、早く帰りたがっていた劇場番のおじさんも根負け。頼りがいある2人の照明女史があたし達に任せなさいと、胸を叩く。

結局、朝5時まで照明は徹夜で明かり作り。

2月9日(水)

初日。音響は朝8時からサウンド・チェック。役者たちはいつでもリハーサルが出来るように9時からメイクしてスタンバイする。11時過ぎから音合わせ。良く声は通る、さすがリアリズム演劇のメッカ。朝から再び揉めていた照明も途中で追いつき、1時過ぎに場当たりが終わる。

ミンスクの演劇公演では前例の無い「無料公演」の始まりである。2時半開場、ドアがあくや否や凄い人である。あっという間に満員。通路も立ち見、照明のギャラリーまで人600人を越す入り。学生や役者、演出家、評論家のための試みである。本当に演劇を愛する人に見てもらいたい。やって良かった。しかし入りきれずに、演劇科の高校生達は帰る羽目になったとか。次回又来るから、ごめんね。

いよいよ開幕。これまで6本のベラルーシで芝居を見たが、客は無反応。モスクワよりかなりおとなしい。正直、客の反応を気にしていたが、始まるや否や今まででも「最高の反応」。笑うは、拍手するはモスクワ以上のノリ。ラスト・シーンに涙ぐむ人まで。カーテン・コールもブラボーの連発で5回!! TVも3社、ラジオ2社と取材が続く。特別にとったアンケートも大絶賛。この「観客アンケート」もベラルーシの演劇界では初めての試みであるとか。集計が出来たら東京に送って貰う。楽しみに待つ。

さて夜の「即日完売」の大金持ちたちの客の反応や如何に? 

7時、ミンスク公演、本当の初日。最初の反応はイマイチ?むむ、緊張。しかし、中盤からはすっかりのり始め昼間の学生達と変わらない大興奮。ミンスクの客の度肝を抜いたようだ。

終演後9時から劇場のビュッフェで日本大使館主催の歓迎レセプション。森野大使は大の芝居好きらしく気に入ってくれたようだ。大使館員5人全員がベラルーシの演劇人との交流の通訳をやってくれる。遅くまで酒宴は盛り上がる。芝居を見て感激したヤンカ・クパーラ劇場の支配人から2006年6月に予定している国際演劇祭へ招待される。ビテブスクの『砂の女』の演出家と主演女優も来ている。劇団の主演女優木内尚と話がはずんでいる。

盛り上がりのついでに?古澤くんがミンスクの彼女にプローポーズ。返事は勿論「ダー。」ミンスクの熱い夜がつづく。

 2000年のカナダツアーからの5年間6回の旅の「役者のリーダー的存在」の青木砂織と沖田乱は国際俳優に成長した。特に沖田の「道化的演技」は世界中で評価されている。アングラの申し子と呼ぶしかない沖田の底知れないパワーはロシアのクソリアリズムの呪縛を見事に粉砕してくれる。八右衛門役の畝部七歩と道化役の沖田乱が海外で最も評価される事実こそが日本の演技の高さの証明。
    

2月10日(木)

午前中皆で地下鉄に乗り市場を見に行く。すごい人出。いつも世界中のフツーの人々の生活を見るのが最高の土産。 

 3時小屋入り。いつもの様に2時間稽古。1ヶ月のツアーもついに終わりである。あと1ステージ。恒例の客入れ前にコール但し、今回はボランティアの学生たちも交えて。数えてみたらこの『盟三五大切海外バージョン』は日本で13ステージ、海外で13ステージしかやってない。『人形の家』は国内外ですでに100ステージを数える。まだまだ『盟三五大切』は「世界演劇」のとば口に辿り着いたにすぎない。

 7時。満員の熱狂の中ワールド・ツアー千秋楽。本当にお疲れ様。「リオ」という「ぴあ」みたいな情報誌の編集長のインタビュー。ベラルーシの演劇界の近年の衝撃的事件になっているとの事。かくしてイランに続いてベラルーシでも「伝説」になったのである。。
 

2月11日(金)

朝10時。森野大使の私邸での会食に主演女優2人と招待される。2年後「ヨーロッパ・ツアー!」の話で盛り上がる。

お昼過ぎからドラマ劇場の若手の『三人姉妹』の1幕1場を見る。能と歌舞伎の様式を取り入れたと4人は頑張っているがまるでダメ!どなりまくるような、いつもの「ダメだし」をやっていた。

2時から総勢60人の大ワークショップ。見学者も30人近く。肉体訓練、殺陣の基本、着物の着付け、所作、すり足、六方、歩行には多くの役者が音を上げる。身体を「静止」するという観念が西洋の身体には基本的に無い。能や歌舞伎のスタイルを使うというのなら「静止の時間」の演出が大事!と教える。それにしても時間が足りない。学生や若い役者たちに近いうちに必ず「演出」してくれと懇願される。何時ものことだが、あっという間に劇団の役者たちは言語の壁を乗り超えて一緒にワークショップをやっている。

三谷幸喜の『笑いの大学』はロシで人気の翻訳台本であり、ここミンスクでも公演中。是非、見てほしいと頼まれたが時間が無く未見、残念。 

2月12日(土)

帰国の途へ着く。

かくして《伝説への旅》は終わった。

 

北京5ステージ1500人。テヘラン2ステージ2700人。モスクワ3ステージ1050人。ミンスク3ステージ1700人。4カ国、全13ステージで約7000人の観客に出会った事になる。海外公演過去最大の観客動員数である。7000人の観客の心の中に流山児かぶきの「伝説」は確実に残った。7000人という私たちが「1年間で呼ぶ東京の観客」(流山児★事務所は20年間東京で平均15000人の観客を動員している)の半分をわずか1ヶ月でよんだのだ。この体験は大きい。
世界中、何処にでも「観客」はいる。世界中、何処ででも「演劇」は成立する。文化の違いや民族、宗教、制度の違いはあっても「演劇の自由」を求め、愛する人々は世界中にいる。ふらりと「世界」に行ってふらりと「日本」に戻ってくる(帰ってくるじゃない!)「世界演劇への旅」を私たちはこれからも続けていく。
日本演劇の源流、河原乞食の原点である「傾(かぶ)く」こころ=アングラの志を高く掲げて世界を駆け抜けた1ヶ月のビンボー旅であった。わたしたちは元気です。モチロンこの国でも、呼ばれれば何処にでも行きます。「出会い」を待っています。


私たちの後に続く若い演劇人が必ず出てくることを願ってこの日記を終える。(2005年2月15日)

舞台写真:北京公演 李 晏 ミンスク公演:Yuri Boudko

 

           『永遠』篇  『心中天の網島』 篇  稽古場日誌 「南北オペラ篇