1979年夏・寺山修司氏インタビュー(演劇団新聞)

「ASIANBEAT」  

IT'S SHOW TIME 元祖リュウザンジ日記

「60年代アングラ演劇私的ライナー・ノート」 流山児祥の出会った4人のアングラ 演劇の巨人へのオマージュ。

 


 

〜60年代アングラ演劇極私的ライナー・ノート〜

「アングラ四天王との出会い」
  
流山児祥

 

《「アングラは暗いもぐら」である。ところで『地下』というものを我々の日常感覚を見返す拠りどころになるものとして、ドストエフスキーの「地下生活者の手記」がある。これが下って、ポーランド映画の『地下水道』となり、更に飛んでいしいひさいちの『地底人』となって今日につながっているわけであるが、『アングラ』もまた、出現したのは六十年以後であるから時代そのものはかぶさりあっていないものの、『アンダー・グラウンド』から「暗いもぐら」へ同様の変質過程を辿ったと言えよう。『アングラはもう古い』という言い方もされはじめているが、そんなことはないだろう。『アンダー・グラウンド』は地表との相対的な位置関係でしかないが、『暗いもぐら』は独自の存在である。これが地表に顔をのぞかせることなく、もっと深くもぐることをはじめたら、ちょっとしたことになるかもしれない》(別役実「めくらまし演劇用語辞典」より)

 「暗いもぐら」。私はどちらかというとネアカでイカレたお祭り野郎だから、別役氏の思い描くイメージから遠く離れた感性の持ち主であろう。すると私は「日常感覚を見返す拠りどころ」といったイミと「こだわり」をもって観客を地下に引きずり込みたい欲望にとらわれている「人さらい」「街さらい」の徒を夢想する「夢喰らいもぐら」か?

 

 

「世界」とつながりたい地下の煽動家、アジテーター。香具師的ないかがわしさとインチキ臭さを持った運動家。それが第1次小劇場(アングラ)演劇の演出家。現実原則の中で「己の存在をも解体する」という決意。破壊の後に廃墟しか残らなくとも!という潔さ、それが本来の「アングラ」の論理だった。演劇の構造改革とも言える部分がアングラにはあった。ん?なんか、小泉改革に似てる?いや、違いまっせ。本来、アングラは市民、大衆の側に立った志高い「反権力」の異議申し立て行為だった。

ぺラぺラの地表の人々を「暗いあなぐら」へと引きずり込み、地表の世界を変えようとしていた。40年前、あの熱い時代、そう思い込んでいた。誰もが熱く「世界」を変えようとしていた時代のお話。

そんな熱い時代に19歳で佐藤信に出会い20歳で唐十郎に師事し21歳で鈴木忠志の研究生となり23歳で寺山修司と出会ったアングラの子供=流山児祥の「アングラ四天王との出会い」の私的ノートを思いつくままに綴ってみる。21世紀の日本の現代演劇を担う若い演出家の何かの参考になる事を願って。

 

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 「アングラの原風景を作り出し、そして今尚、変貌をとげながらも「新しく同じである」唐十郎について

 

 寺山修司と唐十郎は共に1970年代の若者に対する熱烈なアジテーターであった。寺山修司は「書を捨てよ、街へ出よう」「家出のすすめ」を説き、唐十郎は「戦後の若者は何もやっていない」「時代は今、何を必要とするか」とアジテートした。当時私は若者雑誌「平凡パンチ」「プレイボーイ」で二人の天才のアジテーションを読み新宿でフーテンしていた。

 

 唐十郎の状況劇場は1963年に創立されている。第二回公演が唐十郎の処女作『24時53分塔の下″行きは竹早町の駄菓子屋の前で待っている』である。この時、寺山修司がパンフレットに「この戯曲は一読してアダモフやベケットを思わせる前衛劇だが、きわめて日本的で(しかも浅草の重喜劇的で)その上詩的でさえある」と書き、「野外劇から市街での即興劇、オフ・ステージ、ストリップなど劇場を飛び出した前衛劇に発展してゆく事を期待している。」と記している。唐を最初に評価したのが寺山修司。若い無名の唐を当時既に有名な文化人であった寺山が!である。唐十郎はその後路頭劇、野外劇、そして紅テントへと発展変化してゆく。

 アングラの自由さとは「どこにでも演劇は成立する」事の現前化である。論理は明快、ただパリッとした「役者」がいればいい、という唐の「特権的肉体論」である。青山学院大学の劇研で劇団四季の先輩や当時俳優座養成所の16期生だった兄の影響でアヌイ、ジロドゥ、T・ウィリアムス、A・ミラー、W・サローヤンといった翻訳劇を、やれリアリズム演劇だ、スタニスラフスキー・システムだ、いや、ブレヒトの異化効果だ等と分りもせずに「演劇青年」していた私にとって花園神社の紅テント体験は衝撃的事件だった。

1967年夏『月笛お仙・義理人情いろはにほへと篇』。新宿の街中に突如現れた異物。何処にもない「演劇の持つ自由さ」がそこにあった。まるでサーカス小屋のような懐かしい風景。子供のころ、私が住んでいた九州の炭鉱町にやって来た小屋がけ芝居を思い出していた。でも音楽は山下洋輔の前衛ジャズ、ポスターは横尾忠則のポップでキッチュ。19歳の私にはシュール・レアリスムの演劇化?!と映った。

 「いつだって、見るべきものがなくなるなどということはけっしてないのだから、君は足を使って出かけてゆくのだ。どこかにある現代の河原へ」という「状況劇場」新聞を新宿の喫茶店で見つけた時の興奮を今でも鮮烈に記憶している。そして私は唐十郎の劇現場が言葉(理論)でなく肉体(実践)そのものが先行する事を身をもって知ることになる。

 

1967年冬から1968年春までの半年足らず劇団「状況劇場」入団。私は研究生として、唐十郎の劇現場にいた。当時の稽古場は杉並区阿佐ヶ谷本天沼にあった。劇団員は十一人。8畳の稽古場。毎朝汲み取り便所の掃除をし、壁にへばりついて昼は稽古を見ていた。逆立ちとヨガをやらされ、研究生の最終試験は赤い鼻緒のついた下駄を花園の開演時間までに4つ集めろ!だった。花園の周りはラブホテル街。苦心惨憺の末、何とか集め入団した。で、入団したその日に白塗りさせられ夜鷹の役で舞台に立った。台詞も「首は要らんかね!」と「鶴田浩二じゃあるまいし」の2つ。麿赤児番であった。唐の演劇論「特権的肉体論」を体現する「役者集団」という言葉がぴったりの現場。それまでの学生演劇の新劇べったりのリアリズム馬鹿の演出家のヒエラルキーの下の芝居作りとはまるで違う「役者中心」の現場であった。役を「作る」のではなく自分を「役」にする。照明の燈体なんかまるで無く、ドラム缶を切った中に100ワット電球を入れた照明。役者の身体だけが見事に在った。役者たちは、時代状況について、存在理由について日々、稽古場で激論を戦わせていた。

『由比正雪』という作品は唐には珍しい革命劇。「南から帰って来た男というのはベトナムの脱走兵のことだよ、藤岡」と、麿さんがポツリ。鷹さんはいつも「状況劇場が日本の演劇状況を変える」と豪語していた。まるで歌舞伎の原点を思わせるようなアングラ演劇の始まりに私たちはわくわくしていた。テント芝居ではニュアンスなど伝わらない。怒鳴るようにしゃべり正面きって見得を切るしかない。照明も赤・緑・黄の三原色。リアリズムなど糞喰らえの演劇体験。

アングラの演出家は興行師であり理論家でありアジテーター、そして何よりも「けんか」が出来なければならなかった。私は「状況劇場」でその全てを教わった。全員とてつもなくビンボーだった。連日、昼間稽古。公演は週末のみ。が何処にも無い豊かで、新しい演劇運動がそこにあった。

私は度々、街頭デモで怪我をして稽古場に現れては唐さんに怒られた。「アルチザンになれ!」が唐さんの口癖だった。「テントのなかで虚構空間の仕事をしているのなら舞台の職人になれ!」というのが唐さんの自論だった。私がサローヤンと鶴屋南北が好きだと話すと必ず嬉しそうにサローヤンの話をした。が、私は結局、アルチザンになれず、状況劇場を辞め全共闘運動の渦の中に飛び込んで入った。

 

1969年1月3日新宿中央公園事件。新宿の西口の中央公園での『腰巻お仙・振袖火事の巻』強行上演。機動隊二百人に囲まれた紅テントの中に青学全共闘35人がいた。京大闘争から帰りバリケードの中にいた私たちに劇団員のT君から協力の要請。劇共闘(演劇共闘会議)のメンバーとともに西口公園へ。終演後、唐さんと李さんら3人が都市公園法違反で逮捕された。

 

 この頃の唐十郎の劇世界は戦うオトコ″の世界を描いていた。土方巽氏の名言「唐はこの東京で久しぶりにとれたオトコ″足柄山の金太郎のような男です」。時代とストラッグル(格闘)する唐十郎は反権力の象徴であった。初期作品群の中の男達が私は好きだ。「続ジョン・シルバー」のボーイ、ドクター袋小路、「少女都市」のフランケ醜態、「由比正雪」の丸橋忠弥。唐の「父のイメージ」=「オトコ」が私の演劇の根っ子にあるのかもしれない。だからこそ、私は「戦うオトコ」たちを追い求めるのだ。それは、私の「父」を求める行為ともいえる。永遠に続く「父親殺し」。それが私のテーマでもある。白石加代子を発見した鈴木忠志とは別の極に唐の前期はあった。

 

70年代前半に入ると唐十郎と状況劇場も超人気劇団となり次第に変容していった。1972年『二都物語』ソウル公演での韓国抵抗詩人金芝河との劇的な出会い。73年バングラデシュ、ダッカ、チッタゴンでの『ベンガルの虎』公演。そして74年のアラブ・パレスチナでの『パレスチナの風の又三郎』公演という驚天動地の帰着点。状況劇場の「アジア幻視行」これこそが唐十郎「演出」の最高傑作である。

負けたと思った。当時の私は劇団を旗揚げし、オンボロ・テントを引きずって、日本全国を何度となく駆け回っていた。「日本列島幻視行」の方がリアルだったのだ。1973年「演劇戦線」という演劇機関誌を発行。68/71黒テントとの理論闘争を超えた内ゲバ状態に突入。演劇に党派闘争を持ち込むという前代未聞の事件。「暗いもぐら」の孤立無援の戦い…。

  「外界へ市場へと空間を切り裂く」(唐十郎)演劇を目指した70年代の「状況劇場」は、最も運動体らしい演劇運動体といえる劇団であった。「政治における物理的な力とすれすれのところまで煽動してゆく」アジテーター唐十郎。少し長くなるが74年アラブ・パレスチナ遠征の時の声明文を書き写す。こんな事を書ける「演出家」が今、いるか!

 

《「私共、状況劇場は、三年前から韓国そしてバングラデシュと、紅いテントを背負って、日本人の深層意識に脈々と流れる「悪夢の結節点」を河原者の肉体に依って逆襲来、あるいは演劇化してまいりました。それはまぎれもなく、今日のアジアで、日本の演劇人である、我らに何が出来るかという問いかけであります。(略)文化とは闘争の結果であり、その記憶のパノラマだと信じる我らは日本河原乞食として培った紅テント劇場の総体と内容をパレスチナの人々の前に暴虎馳河の勇気をもって提出したいと願っております」》

 

30年前、かくの如き冒険(ロマン)の志を「アングラ」は持っていた事を私は誇りとする。「今日のアジアで日本の演劇人である我らに何が出来るか」。これは、終戦60年の節目の年を迎えてなお「悪夢の結節点」を「演劇化」出来ず、只「商品化」されている「日本の現代演劇の現在」を指弾する。このマニュフェストは今も尚、私たち演劇人に根源的な問いかけを続ける。

自らの拠って立つアジア、そして第三世界にこだわり続けた「状況劇場」。それこそが80年代後半から現在にかけての日韓中・東アジアの舞台芸術の国際交流の水先案内人だった。

私たちは2005年春鶴屋南北の歌舞伎『盟三五大切』を持って、反日運動の高まる中国、そして初のイラン、ロシア、独裁国家ベラルーシ公演を行った、8回目の海外公演である。私達はこれからも「世界中」にフラリとフツーに芝居を持っていく。唐、寺山らの演劇による国際交流の志を受け継いで。

 

唐十郎が現代演劇に残した最大の「演出」行為は「紅テント」そのものである。子宮の如き紅テントの中で「たたかいをやめないオトコたち」。それを私たちは憧憬のまなざしで見つめていた。だからこそ私達は1970年「演劇団」を結成し、「状況劇場」とは違う地平で現実とストラッグルする「第2次アングラ演劇運動」をはじめたのだ。

 

しかし1973年を境に「アングラ」は「小劇場」と呼ばれる柔構造へと雪崩れをうっていく…。つかこうへいの華々しき登場であり連合赤軍事件に象徴される「政冶の季節」の終焉である。

 

 

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演劇界の巨人=劇詩人寺山修司について

 

 1970年の出会いから83年の永遠の訣れまでのわずか13年しか私はテラヤマを体験出来なかった。

 

 《「血は立ったまま眠っている」は私の処女戯曲であり、1960年に「文学界」に発表され、浅利慶太の演出で、劇団四季によって初演された。「一本の樹の中にも流れている血がある。そこでは血は立ったまま眠っている」というみじかい私自身の詩から発想されたこの戯曲は六十年安保闘争との関係を省いて語ることは難しい。私の中には、その頃から、「政治的な解放は、所詮は部分的解放にすぎないのだ」という苛立ちがあり、そこがこの戯曲をつらぬく政治不信となってあらわれている。勿論、処女戯曲だけに、言葉ばかりあふれ出し、劇であることよりは集団朗読的な様相を呈している。要するにこの戯曲は「文学」をめざしておりそのことが決定的な弱点となっている。それでも23歳という弱年で書かれたこの戯曲に私が愛着を持っているのは、この戯曲の中にその後の私の演劇のあらゆる要素が萌芽しているからである。とくに第三幕におけるストーリーの崩壊、人物仮面の剥離、素明りによる虚構の異化、そして挿入される歌、雑誌記事、天気予報などのコラージュ手法は、「天井桟敷の演劇」へそのまま引き継がれていったものである》

 

 長い引用になったが、寺山修司の劇の全てが詰まっているこの作品に出会ったのが1965年青山学院大学1年生18歳のころである、早稲田大学大隈講堂、東由多加の演出の「劇団なかま」公演。千葉県立東葛飾高校の後輩悪源太義平と一緒だった。当時私は新宿のフーテンでハイミナールを飲みラリって観劇していた。

「プレイボーイ」やテレビで見かけるあの寺山だ。朝鮮楽団?という名のジャズの生バンド。オドロオドロしいセット。本物の鼠が走っていた?度肝抜かれた。おまけに東由多加はたった3歳上。それなのに私は「オイ、あの人が有名な詩人の寺山修司だぜ」と悪源太と脳天気にミーハーしていた。

35年後の2000年春、渋谷ジァン・ジァンファイナル公演で『血は立ったまま眠っている』を西洋便器一つのセットで演出することになるのだが、当時の私にははそんなことは想像も出来ない。

 

 1967年「天井桟敷」旗上げ。スローガンは「見世物の復権」であった。日本新劇の出発点である築地小劇場のスローガンの椰喩であることは明らかである「演劇の実験室、民衆の見世物小屋」のパクリでありながら、寺山の実験性や演劇革命への意志を表現したもの。言葉使いの名手。

 「演劇実験室天井桟敷」の名前はジャズ喫茶でチラシというより「新聞」と横尾忠則の度肝抜くポスターで私らの前に衝撃的に現れた。状況劇場も「新聞」を作っていた。アングラ第1世代は自らの舞台作りを常に理論、言語化した。ミニコミの情報だけで演劇が成立していた時代、何よりも理論武装が必要だった。

「奇優、怪優、侠儒、巨人、美少女等募集」。俳優募集でなく「存在そのものが俳優」の人々を「オーディション」で集めるやり方も物珍しかった。そして「見世物の復権」は「青森県のせむし男」で鮮烈デビューをかざる。「大山デブコの犯罪」では百キロのデブコが数人並び、懐かしの見世物小屋が現出した。

 第三回公演で「毛皮のマリー」という天井桟敷の初期の代表作が生まれる。私は「青森県のせむし男」と「毛皮のマリー」を見たが何故か好きになれなかった。何故好きになれなかったか?今、想うと、唐十郎の「戦うオトコ」達の先に「現実の政冶闘争」を想い描いていた私には、キッチュな見世物も寺山モダニズムにしか映らなかった。ただ、美輪明宏(当時丸山明宏)の存在の凄さには脱帽した。この頃すまけい、山谷初男、小野磧といったアングラの奇優怪優たちが「暗いモグラ」の様に小劇場に君臨していた。

寺山修司は近代の劇場が既に忘れてしまった異形の祝祭空間をまるでサーカス小屋のように作りたかったのだ、フェリーニの映画のように。アングラと呼ぶしかない「傾ぶく演出家」が唐十郎と共に颯爽と登場したのである。

「ドキュラマ」と称しドキュメンタリーとドラマを合体させ「書を捨てよ、町へ出よう」を上演。今度はゴダールの映画のよう。坂手洋二の「ドキュラマ」と違うのは役者が全員シロウト。しかし本当の「社会性」はアリ。自分の詩だし、自分のコトバだから実にリアルなシロウト芝居だった。「3分位だったら世界中の人が名優になれる」という実験劇。

演劇の制度の「外」から始まるこれらの「演劇の革命」は当然、当時異端扱いされ、評価されることが少なかった。また唐十郎の寺山に対する文化的スキャンダリスト=東北型芸術出世主義という呼び方に当時の私らも少なからず同意していた。

 

1969年全共闘運動の敗北過程で私は「渡り鳥活動家」と嘘ぶき、佐世保、京都と各地のパチンコ屋に住み込みながらノン・セクトラジカルの遊び人を気取り全国学園闘争にのめり込んでいた。

69年正月、私は京都大学のバリケードの中にいた。時計台占拠、京大闘争参加。早朝機動隊導入らしいとの報せがあり、私と当時青山学院大学の元全共闘議長の新白石と元副議長の私は、後の赤軍派になる関西ブントの幹部のMさんから、「時計台に立て篭もりいざという時には放火してくれ」と言われた。翌朝、急遽、百万遍に出て街頭バリケードを作る事になった。火炎ビンを持って全員突撃!早朝の京都の街を燃え上がらせて機動隊とぶっかり、敗走し、いつのまにか祇園まで逃げていた。

街の人々の「おはようやす」の声を聞いているうちに、それまで2年間学生運動の尻っ尾にくっついていたテメエが無性に馬鹿馬鹿しく思えてならなかった。「30円切符」を買って京都駅から東京行きの鈍行列車に飛び乗った。「これじゃ、街は変わらない。」

その夜遅く、焼津駅のホームから線路に降り帰省していた青学劇研の同級生の北村魚に電話し、金を借り一泊させてもらった。そして宣言した、「俺は芝居で世界を変える!」大学に帰ってみると状況劇場のT君から電話。それが、先述した状況劇場中央公園事件である。

 

 

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続いて、今尚「病気長屋の日本人」を見つめ続ける鈴木忠志についての私的体験

 

 1969年4月早稲田小劇場入団。そこでは唐十郎の演劇とは全く違う「みじめな人間存在」の演劇が21才の私の前で目まぐるしく1年間くりひろげられた。鈴木忠志という「グロテスクな迄の生」を按配する演出家との出会いである。

 今思うと、研究生の時『劇的なるものをめぐってT・U』という鈴木忠志と早稲田小劇場の名作に出会えた事、鶴屋南北の戯曲に触れたこと、白石加代子という役者(才能)の出発に立ち会えた事が私の演劇人生の財産である。「稽古場」に人がいて「集団」がある。そして、稽古場から「作品」が生まれる。その現場性の凄まじさが当時の早稲小にあった。集中力それも皮膚感覚、潜在意識までもがポコッと出てくる凄さ。稽古場で鈴木は徹底的に役者を苛め抜く。役者の日常生活までも否定し息が詰まりそうな現場。その緊張の果てに言葉と身体のズレの間に「グロテスクな日本人の生」が立ち上がる。当時鈴木の弟子であったつかこうへいは『熱海殺人事件』で鈴木の「ダメ出し」をデフォルメし、グロテスクな喜劇的台詞にしている。サド・マゾと紙一重のところに「冥い劇」が立ち上がる。丹田を鍛え歩行を中心にした例の「スズキ・メソッド」はその数年後に誕生する。

 鈴木忠志は私にメルロー・ポンティ、バシュラールそして世阿弥を読むことを教えた。寺山修司の劇が社会学であるならば鈴木忠志の劇は精神病理学、身体現象学である。鈴木忠志の役者を見る眼は精神病の医者の如く刺激的で、知的で強度のある演出論は俳優のみならず日本社会の構造をも演出しようと展開してゆく。鈴木は舞台芸術の公共性を最初に理論化し実践した演劇人である。

 

真の演技とは「個別一回性のものであって共有される筋合いのものではない。各個人のまったくの独自性として、空間のうちに一瞬あらわれ、時間のなかにすばやく飛翔しさる、てあいのものだ。」と鈴木忠志は言い放ち、「人間がみじめったらしいところで芝居をやる」決して、未来を謳歌しない「肯定して未来を謳歌出来ない感情の力からしか芝居を組み立てない!」と私たちにマニフェストした。

 ●「演技とは、自分の現在が身体について持つ意識の在りようによって決まる」

 ●「演劇がその生命力を誇示するのは、その時代の無名の人々=観客の生活感覚の深部にある、語られない言葉に、舞台上からどのように接触することが出来たかという事」

 ●「私にとっての初心″とは、おそらく人間に対する惨めさの感覚を持続させる質の問題をさしているだろう」 

 ●「演劇というのは、俳優が中心になって担う世界であり俳優の担った広義での言語性と考えるから、その可能態を前衛として確立するには、そこに生身の人間の行為=演技の新しい在り方がなければならない」

 

35年の歳月が流れたが、この演出・演技論は今でもいささかも色褪せていない。唐と寺山の渋谷乱闘事件の報を聞いた時も鈴木忠志と一緒だった。唐の『少女仮面』の手書きの台本を最初に見せてもらったのも早稲小の下の喫茶店モンシェリである。また私の処女作、研究生公演『マシンガン・ジョー』の照明デザインもしてくれた。私が照明を覚えたのもこの時である。

 

その後、私は性懲りもなく政治ビラを劇団公演で撒き、19701月、劇団をクビになる。1970年4月、「早稲田小劇場」と「状況劇場」の研究生と「青学劇研」のメンバーにフォーク・グループ「六文銭」のメンバーを加えて「演劇団」という平均年齢21歳のアングラ劇団を私たちは旗揚げした。

 

 

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そして、ふたたび寺山修司

 

「運動の演劇」「革命の演劇」を唱えた黒テントや私ら演劇団と寺山修司の距離は1970年代前半までは遠かった。その違和感は彼の俳優論、集団論にあった。「俳優とは『ただの血のつまった袋』にすぎない」と語る寺山は私らの思い描く「革命の演劇」から遠い存在であったのだ。

 

 「天井桟敷」の、寺山の「世界演劇への旅」は1969年に始まる。リビング・シアターとの劇的な出会い、「体験から相互創造へ」と突き進んでいく。「演劇の革命」宣言。時、あたかも全共闘運動が学園から街頭へと闘争を拡大させていた時代にパラレルに重なる「劇場を出て演劇を市街へ」「もしも劇がつまらなかったらその半分は観客の側にある。出て来て面白くすべきだ」と寺山はアジテートし続けた。1969年6月「天井桟敷」はドイツのフランクフルトで開かれた国際演劇祭「エクスペリメンタ3」に招かれ『犬神』と『毛皮のマリー』を上演する。日本現代演劇の初のヨーロッパ公演。だが、当時の私には天井桟敷の行った海外遠征の意義は理解不能なモノだった。しかし、今でも海外で最も有名な日本の演劇人はテラヤマだという事実を1993年の英国留学の時パリやロンドンの演劇人たちから知らされる。そして、1999年韓国から始まる寺山修司作『狂人教育』の6回のワール・ドツアー、行く先々で「世界のテラヤマ伝説」を聞くことになる。

 

1969年、渋谷並木橋に出来た「天井桟敷」の拠点劇場「天井桟敷館」は第2次アングラ世代の常打ち小屋でもあった。山崎哲、生田萬、外波山文明といった若い同世代の演出家や役者との出会いはあの劇場があったからである。見世物小屋を思わせるあの空間センスが寺山修司のすべてを物語る。

 

 1970年市街劇『人力飛行機ソロモン』では街全体を劇場化しょうとした。チケットの代わりに手渡された新宿の地図を片手に私らは街を彷徨った。同時多発的に行われる演劇。今までない「劇」であった。「街」に劇を仕掛ける演出家が始めて日本に生まれたのだ。私たちも30年後『書を捨てよ町へ出よう〜花札伝綺』を2001年新宿、2003年下北沢で市街劇として上演した。街の風景が少し変わった。

 

1965年に寺山修司をチラッと見た大学一年生の私。5年後の1970年、劇団を旗揚げしたばかりの冬のある日「寺山修司です。芝居について話しませんか」とアパートに電話があり、渋谷で会った。毛皮のコートを羽織り、高いポックリを履いて寺山さんは喫茶店に入って来た。「君は結婚しているの?」「はい」「僕は離婚したんだよ」。「流山児くんは演劇で革命が起こせると思っているの」「ハイ、革命の演劇は可能だと思います」。それから何度となく、演劇の話をした。日常と非日常の境界に遊ぶ劇詩人であり編集者の現実原則を併せ持つ稀有の演劇人寺山修司。会う度に、寺山演劇のスケールの大きさに驚かされた。

 

1972年『邪宗門』73年市街劇『ノック』で寺山修司と天井桟敷は現代演劇の最前衛に踊り出た。だがその頃の私らは先述した如く「革命の演劇」の戦いの中で悪戦苦闘中だった。唐十郎にしろ寺山修司にしろ全ての演劇業界が「敵」であった。1979年「演劇団」解散直前まで「演劇の革命」が私たちには理解出来なかった。だから、イミなく寺山さんに当時つっかかっていた。

 

寺山修司は「見世物芝居」を捨て劇場という名の獄舎をも解体=炎上させる演劇の革命家への道を、「孤立を恐れず連帯を求めて」突き進んでいったのである。

 《「虚構の放火が現実の暦を討つ事物の政治学。灰。われわれにとって凡ゆる場所が劇場である。密室の市街化と市街の密室化。ペルシャ遺跡への長征。言葉をめざめさせることによってもう一つの世界を眠らせよ。極限を目ざす者たちの共同創造によって亡霊の徘徊を組織化する」》

 天井桟敷は、演劇の実験を押し進める。72年、暗闇演劇『盲人書簡』。迷路の演劇『阿片戦争』。カーテンによって客席を仕切る半可視劇『疫病流行記』。そして76年『阿呆船』へと至る。どれもこれも面白い演劇の実験である。そして1978年寺山修司の代表作『奴婢訓』が生まれる。国際貿易センターで『奴婢訓』を観終わった後の衝撃を忘れられない。私のベスト・プレイである。イメージの凝縮、演劇のスベクタル性寺山美学の集大成。

1979年、当時「演劇団」の劇作家であった山崎哲と寺山さんと3人で演劇の未来について話をした。「これから世界の演劇を目指すんだよ、流山児くん」新たな方向を見出すために、劇団解散の決意をする。「演劇団」解散の乾杯の音頭は寺山さんであった。

 

1980年『奴婢訓』ニューヨーク公演にあわせて一ヶ月アメリカ遊学をした。ラ・ママ劇場やホテルで寺山さんは何度となく「演劇の革命」や「市街劇」の構想を語った。この時「劇団に新作を書いて下さい」と依頼した。その後、肝硬変のために寺山修司は北里大学病院に入院。この約束は1983年5月『新・邪宗門』(「邪宗門」改訂版)に引き継がれる。それが寺山修司の「遺作」となった。想像だにしていなかった。

 

《『新・邪宗門』のラスト・シーン。寺山さんは革命歌としてシベリウスの「フィンランディア」を流すことをすすめた。その曲は二十四歳の時書いた映画脚本、篠田正浩監督「乾いた湖」の中で流されたものだった。六〇年安保をテーマにしたこの映画の中で彼は、自ら全学連役で出演している。この映画の主人公は「デモで世の中変わらない」とし、全学連を脱退し、一人で爆弾闘争を試みる青年だが、彼の爆弾実験の背景に流れる曲が「フィンランディア」だった。それは、いわば思い出の曲だったのだろう。》と高取英は「寺山修司論」で書いている。

私は「フィンランディア」は使わずロックの「ワルシャワ労働歌」を使った。それが私なりの寺山修司の「演劇革命」を引き継ぐ決意表明でもあった。永遠の前衛の道を歩み続けた寺山修司という希代の演劇人の死で「アングラは死んだ」のである。

 

 《演劇実験室天井桟敷の軌跡は、新劇という一ジャンルへの無の贈与を繰り返してきたのではない。あくまでも、呪術的な媒介作用を通して「社会転覆」をめざしたのだ。》

 

 

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 最後に黒テントの佐藤信について

 

1967年、佐藤信との出会い。アンダー・グラウンドシアター六本木「自由劇場」オープンの1年後。私は青学劇研に「演劇集団ヘテロ」というユニットを作り、安部公房の『制服』を自由劇場で上演している。その時、面倒をみてくれたのが斎藤憐、串田和美、佐藤信ら。何も知らない学生に地がすりのはり方や照明のやり方まで「芝居の作り方」を教えてくれた。

 

2年後、私は佐藤信の『あたしのビートルズ』を演出した。渋谷の「ヘアー」。東由多加の「東京キッド・ブラザーズ」の拠点劇場。キンキラキンのミュージカル仕立ての「怨歌劇」。佐藤信から学んだのは音楽劇(ミュージカル)と劇作の方法である。これを期に佐藤信との交流は続く。青学のバリケードでの「日本浪漫派講座」。芥正彦の「劇団駒場」への協力。そして演劇共闘会議の設立。私らの街頭デモのなかにこのアングラのプリンスはいた。

その後1973年、内ゲバ。再び共同作業する1985年『青ひげ公の城』(流山児★事務所公演 寺山修司/作 佐藤信/演出)まで、10年以上の時間が必要だった。信とは死ぬまで様々な形で批評しあいながら進む事だろう。

『鼠小僧次郎吉』4部作『昭和の世界』3部作が私たちに与えた影響はその運動性ゆえに唐、鈴木、寺山以上のものがあった。黒テントは実に軽やかに時代を射ち続けた。難解にしてナンセンス、アジプロ劇にしてメロドラマ。様々な演出的趣向を、アジアの演劇との交流を、私たちは学んだ。

 

 

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今、思えば私は「アングラ四天王」の最も面白い演出の「良いとこ取り」をやっていた。それが「演劇団」の十年である。4人の演出家は相互に影響を受けながらも自らの独自の演出方法を確立していった。言語と身体、批評と実践、運動と美学、場と演劇、演劇の革命と革命の演劇。様々な演劇の実験が60年代後半から70年代前半にかけて行われた。最も貧しくて、最も豊かだった。

 

アングラとはその人の生き様=死に様=遊び様である。必要なのは「批評精神」。演劇は所詮「集団=運動」でしかない。現在の社会が喪失しつつある関係の回復の「場」。「劇場」という「場」で演者と観客の間に作品=行為が共有される。私は「物語る」ことを止めない無名の身体の群れと共にそんな磁場を創り続ける。

「遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さえこそ揺るがるれ」(「梁塵秘抄」)である。

演劇が「世界」と繋がっている事を教えたのが「アングラ」である。「暗いもぐら」達は地底で常に「世界」と繋がっていたのだ。「世界」を旅しているとそのことを実感する。

 

2005年8月15日

                                                                終戦60年記念日  

 

※本稿は1996年から97年に8回にわたって 演劇誌「テアトロ」に連載されたエッセイ「流山児祥の激しい季節」を大幅に改訂改稿したものです。

 

流山児祥(りゅうざんじ しょう)
流山児★事務所主宰。劇作家、俳優、演出家。日本演出者協会副理事長。1947年熊本県荒尾市生まれ。

青山学院大学経済学部中退。状況劇場、早稲田小劇場を経て1970年「演劇団」を旗揚げ。(90年解散)第二次小劇場(アングラ)演劇世代の闘うリーダーとして35年以上にわたって精力的に活動中。

1984年小劇場の横断的結合を目指し流山児★事務所を設立。演出作品は前人未踏の210本を越え国内外で高く評価されている。『青ひげ公の城』で2003年第5回東京芸術劇場ミュージカル月刊優秀演出家賞。『狂人教育』でビクトリア国際演劇祭2000グランプリ。『ハイ・ライフ』で愛知芸術劇場演劇フェスティバル2005グランプリなど受賞作多数。1999年から6年間7度海外公演を行うなどその独自の演出美学は国際的評価が高い。

1970年年代「演劇団」(第一次)は『夢の肉弾三勇士』4部作『地獄の季節』3部作『紅の翼』『女剣劇!三銃士』など50余作品を1979年解散まで流山児祥作・演出で上演。

70年代の主なメンバーは北村魚、悪源太義平、及川恒平、新白石、龍昇、藤井びん、木之内頼仁、塩野谷正幸、赤星エミ、田根楽子、福井泰司、ROMIなど。旗揚当初は六本木自由劇場、早稲田小劇場などで上演。72年から5年間浅草木馬館を拠点劇場に活動。テントによる地方公演も積極的に行う。名古屋七つ寺共同スタジオの杮落とし公演は『夢の肉弾三勇士』であった。後期には山崎哲作『勝手にしやがれ』野田秀樹作『ぷらねたりよむ・あむーる』なども上演。

演劇団の演劇論「流山児が征く・演劇篇」が而立書房から出版されている。戯曲集『夢の肉弾三勇士』(綾重書房)『浅草カルメン』(阿礼社)などもある。『夢の肉弾三勇士』が2005年3月天野天街(少年王者舘)演出で33年ぶりに上演され大反響を呼んだ。